歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

ポートモレスビー侵攻作戦(オーエンスタンレー山脈越え)

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パプアニューギニア本島の珊瑚海側にあるポートモレスビーは文字通り天然の良港です。これは沖合に一直線に伸びた環礁の一部があり、これが見事な防波堤の役割をしており、内海は水深 50m 位で、うねりは全く入ってこなく大艦隊が停泊可能ですから海軍が着目し、ここをベースにして米濠遮断作戦を目論むのは作戦遂行には当然かもしれませんが、それは作戦遂行の戦力を保有していることが前堤で、精神論だけが先行する日本軍の侵攻作戦は悲劇の序奏にすぎなかったのです。ポートモレスビー侵攻作戦は、南遣艦隊(空母 3 隻・第 5 航空戦隊)と陸軍の輸送船団がパプアニューギィニア東端のサマライ岬廻りで進撃しましたが、1942 年 5 月 8 日 待ちかまえていた米海軍の機動艦隊と史上初めての航空母艦より発進した航空機による相互の激闘(珊瑚海海戦
で双方が 1 隻の空母を失い、日本軍はこの珊瑚海を抜けきれず引き返し、海路からのポートモレスビー攻略を諦め、大山脈超えての陸路による攻撃に切り替えたのです。
海上からの侵攻が無理と解ると、陸軍はソロモン海に面したブナをベースにしてオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビー攻略を立案します。直線距離では約 220km 兵要地誌は完全な白紙状態、この作戦に参加したのは新設された17軍の南海支隊、歩兵第 144 連隊(高知)、歩兵第 41 連隊(福山)、山砲第 55 連隊、総数 1 万 1 千名の兵士、指揮官堀井少将です。ブナからココダ迄は道らしきものがある程度で戦車やトラックは走行できず、やっと馬匹運送が可能という厳しさ、南海支隊前線司令部をココダに設置しましたが、ここから先は人跡未踏といえるような 4000m 級の大山岳地帯ですから重砲は運べず、兵士のみが重装備で走破させる作戦です。部隊は体力の限界を超えた辛苦の末、大山脈を越えて山脈の出口であるイオリバイワまで連隊規模の兵士が辿り着きました。出口といっても相当の高地で夜になるとはるかにポートモレスビーの街の灯が微かに見える程度です。偵察機による情報で正確に把握していた豪陸軍第25旅団がこのイオリバイワに絶対的な防衛線を張り巡らして待ちかまえており、飢えと疲れでフラフラの我が兵士に容赦のない猛射を浴びせ約 5 千の兵士が戦死しております。この作戦には 1 万 1 千の兵士が動員され総戦病死 6500 名ですから、ほぼ犠牲者はこの戦いでの戦死です。その後、防衛線を築いた部隊は後方ココダへの撤退命令がだされました。ラバウルの第17軍司令部と南海支隊の無線連絡はココダまでで、イオリバイワへは山中を、連絡兵が一週間かけて届きました。堀井支隊長が受け取った命令は、最速で1週間前の発令であります。戦闘中の支隊長は、命令をその場で下達できず、何日か手元に置いていたらしいのですが、大変無念であったが命令をしました。前の日に谷川で米を研ぐ兵隊に「これを食ったら食糧は全く無くなる」と聞いたのです。支隊長自身の夕食にも少量の雑炊を供されただけで、すでに飢えて落伍した兵隊もいます。前進をつづければ、ポートモレスビーに着く前に全滅する可能性が強い、と数日前に届いた撤退命令を実行する気になったらしいのです。9月20日から、傷病兵を担架に乗せて撤退を開始した。まだ軍隊としての統制がとられていた。イオリバイワの第一戦で敵と対峙している144連隊を撤退させるために、追尾する豪州軍を阻止する後衛部隊を41連隊第2大隊に命じたのです。

ダンピールの悲劇

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前線基地ラバウルのあるニューブリテン島と、ニューギニア島の間にはダンピール海峡と呼ばれる海峡があります。昭和18年初旬、日本軍はラエで壊滅的な打撃を受けていたが、体勢の建て直しをはかって、第51師団の残る7千名を8隻の輸送船でラエ地区に上陸させる作戦が開始されました。3月3日この船団がダンピール海峡に差し掛かった早朝、連合軍の爆撃隊が襲い掛かり、8隻全てが撃沈され3千名の約半数の将兵が海中に沈みました。生存者は駆逐艦に救助されてラバウルに引き返したが、ごく一部が着の身着のままでラエに上陸しました。これが、「ダンピールの悲劇」といわれるものであります。輸送船団を護衛する航空兵力は、すでに日本軍は失っていたのです。この時連合軍は漂流する日本軍将兵を虐殺したとされます。日本軍潜水艦を追い払った米軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍大発動艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えたのであります。連合軍側は後に、日本軍兵士は救助されると速やかに現場へ復帰する、捕虜となったとみせかけて米兵に襲いかかるなど、先のB-17爆撃機の生存者への機銃掃射に対する報復等の理由をあげ、この行為を正当化しました。

 

 

第二次長州征伐

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幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。幕府は蛤御門(はまぐりごもん)の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵します。のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示しました。第二次長州征伐は1866年(慶応2年)に幕府と長州藩との間で起きた戦いです。山口県では、4ヶ所の国境で戦いが行なわれたことから四境戦争と呼んでいます。幕府軍は各地で敗れ、将軍徳川家茂の死を名目として兵を引きました。この戦いで幕府は力のなさを国内外に示すこととなりました。

第一次長州征伐

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第一次長州征伐とは、禁門の変の処分のために幕府が長州に対し成敗するための軍事行動です。単独での外国船砲撃など過激で急進的な攘夷活動が目立っていた長州藩でしたが、朝廷への影響力も強まってきておりました。そのカウンターとして薩摩藩会津藩は朝廷工作を行い、勅許を得て長州藩や攘夷派の公家を京都から追放した事件を八月十八日の政変と言います。京都を追われた長州藩士たちは、罪の回復のため兵を引きつれ御所へ押し入り、戦闘が勃発します。この御所襲撃事件を禁門の変といいます。結果、長州藩は敗北に終わり、久坂玄瑞入江九一など多くの逸材を失うことになります。さらに、御所内に向け砲撃してしまったことにより長州藩は完全に「朝敵」となり、禁門の変から2日後、孝明天皇は長州伐令を出すことになります。これが第一次長州征伐です。この長州征伐、出兵命令を出された西国諸藩も戦費負担を気にしたため、厭戦ムードが内在していると言われております。幕府軍の総督となる前、尾張藩主の徳川義勝もその任を何度も断ったほどです。しかし、全権を彼に任せるという条件によって引き受け、参謀には薩摩藩西郷隆盛がつきました。この長州征伐に先立って西郷隆盛勝海舟と出会っていました。勝海舟から公武合体(朝廷と幕府が協力して国政を担う)の限界と雄藩連合による新政権の実現の話を聞かされた西郷隆盛は考えを改めるのです。1度は長州藩撃滅を決意した西郷でしたが、勝海舟との会談後、長州藩の処分を軽くし、長州藩の力を温存を考えるようになるのでした。もはや相次ぐ敗戦にて長州藩は降伏条件を受託するほかなく、藩主の謝罪文、3家老の切腹三条実美らの追放、山口城の破却を受け入れ、第一次長州征伐は戦わずして長州敗北となるのです。 

会津藩、新撰組の禁門の変(蛤御門の変)

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一橋慶喜禁裏御守衛総督桑名藩主の松平定敬京都所司代に就任し、会津藩で兄弟である松平容保と次第に連携を深めていきます。この連立権力は、頭文字をとって一会桑の権力と呼ばれています。会津藩は、そのなかで軍事面の中核を担いました。1863年の八月十八日の政変で、長州勢を京都から駆逐会津藩はその報復に備えて、領地からの人足動員体制をととのえていきます。その過程で、元治元年6月には、15歳から60歳のうちで健康な男子の数を村々に申告させました。その翌月には、上洛してきた長州勢との間で禁門の変と呼ばれる戦闘を展開しますが、会津藩は直前の申告に基づき領地村々から農民たちを総動員しています。村々の協力もあって、会津藩が勝利を収めると、今度は長州勢の残党探索が始まります。市域でそれを担当したのは、会津藩配下の新撰組でした。新撰組禁門の変の激戦には間に合わなかったようで、残念ながら最前線に立つ機会がなかったのですが、蛤御門守備の会津藩へ合流した時には 彼らより一足早く到着した薩摩藩が最前線で戦っており、新撰組はそれに従うのみだったのです。言ってしまえば先を越されて しまったのであります。新撰組は18日夜に、伏見つまり福原越後隊が布陣する長州屋敷に夜襲をかける予定で、幕府本陣から至急招集がかかったのは その準備の真っ最中だったのです。彼らの夜襲の前に福原隊が動き出してしまったのでありました。その後、残党狩りを行い、新撰組は、薩摩・伊予松山・小浜・小田原・膳所藩兵と共に嵯峨天竜寺を焼き討ちにするが、長州兵は1人もいませんでした。その後の真木和泉の残党を追って、会津薩摩藩兵に加わり天王山を包囲、山頂を目指して進発。山頂に達すると真木が姿を現したが、 一斉討手に大砲を浴びせ即座に陣小屋へ引き返すと17人全員が自決してしまったのです。ここでもまた新撰組は白兵戦を戦うことはなかった。※蛤御門の名前の由来とは⇒蛤御門は常に閉ざされた門だったが、天明8年(1778)の大火の時に開けられたので、焼かれて口を開く蛤のようだということでこの名が生まれました。

高杉晋作と禁門の変(蛤御門の変)

 

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京都では「八・一八の政変」が起こりました。 これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。 一つは遊撃隊の総督を務めていた来島又兵衛らによる武力で解決しようとするグループ、 もうひとつは、周布政之助高杉晋作らによる慎重に事を進めようとするグループです。高杉晋作は、藩主の命令により、来島又兵衛の説得を行うことになりましたが、これがなかなかうまく行かず、 ついには様子を見てくるといって、藩主に無断で京都に行ってしまいました。 桂小五郎たちに説得され、長州藩に戻った晋作は、この行為が脱藩とみなされ、 かって吉田松陰も投獄されていた牢屋、野山獄に入れられてしましました。 高杉晋作は、約三ヶ月もの間、野山獄に投獄されていたのですが、 その間、長州藩は大きな危機をむかえていました。

京都の池田屋新撰組との乱闘の末、池田屋事件吉田稔麿を失い、京都蛤御門付近で長州藩士と、会津藩桑名藩薩摩藩の諸隊との衝突した禁門の変がおこり、 久坂玄瑞、入江久一、来島又兵衛を失ってしまいました。 これらの事変により、松下村塾四天王のうち、残ったのは高杉晋作だけとなりました。また幕府は、禁門の変長州藩兵が発砲した銃弾が御所へ向けて飛んだという理由で、 この責任をとらなければ、長州に攻撃をしかけると脅してきました。 そのうえ下関では、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊が 報復攻撃をしかけてきました。

西郷隆盛と禁門の変(蛤御門の変)

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元冶元(1864)年2月28日、西郷は沖永良部島に幽閉されてから約1年8ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、この時以降に西郷の縦横無尽な維新への活躍が再び始まるのです。西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の「八月十八日の政変」で同盟した会津藩と手を切ることでした。確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすためだけに会津と手を結んだことへのしわ寄せが、薩摩藩の現状を悪化させていると考え、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟に関係した人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力をあげました。一方「八月十八日の政変」で京から追い落とされた長州藩ですが、この年に起こった池田屋事件に激昂した長州藩内の急進派と呼ばれる人々は、京での勢力回復を目指し、前回紹介しました福原越後ら三人の家老を将として、京都に向けて大軍を進発してきたのです。長州藩兵は、伏見、嵯峨、山崎といった京周辺に陣を構え、いつでも攻撃できる準備を始めました。この事態を憂慮した京都守護職松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求したのですが、西郷は「池田屋事件は、会津と長州との間の私闘である」と出兵を拒否、薩摩藩は御所の周辺を重点的に守るという方針を立てたのです。元冶元(1864)年7月18日夜、ついに痺れを切らした長州藩兵が動き出し、蛤御門を中心に攻めかかりました。前年からの恨みを晴らすかの如く、長州藩の勢いは誠に凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せました。この状況を知った西郷は、自ら藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名も一躍京において有名となりました。

 

※西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛文政10年12月7日1828年1月23日) - 明治10年(1877年9月24日)は、日本武士薩摩藩士)、軍人政治家薩摩藩の盟友、大久保利通長州藩木戸孝允桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。

桂小五郎と禁門の変(蛤御門の変)

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桂小五郎はご存じ後の木戸孝允です。長州藩の上士出身で家格も高く吉田松陰先生とも懇意にしておりました。禁門の変の前後の動向として、1864年の池田屋事件では、桂小五郎の到着が早すぎた為に本拠地にもどった間に事件が起こり難を逃れたとも、居合わせたが池田屋の屋根を伝い逃れて対馬屋敷へ逃れたと伝わっております。その後も、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権のため久坂玄瑞と活動を続けております。八月十八日の政変池田屋事件で多くの犠牲を出した長州藩は、桂小五郎高杉晋作の反対にもかかわらず挙兵上洛し、久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に福原越後軍が伏見に陣取り、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちが無実の罪に問われていることを迫りました。朝廷は一時、京都守護職会津藩から長州藩に変える所まで行くが、一橋慶喜からの脅しに孝明天皇および公卿たちは劣勢に陥る。中川宮朝彦親王など佐幕派公卿たち長州軍を挑発して長州軍の退去を通告します。武門の名誉を賭けて長州軍先発隊は蛤御門の変禁門の変)が勃発しました。来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺隊は、会津軍を破り禁裏に迫るが薩摩軍に付かれて来島が倒れた後は総崩れとなる。福原越後率いる伏見隊は御所に辿り着けず、早々と退避します。久坂玄瑞率いる天王山隊は出遅れ、御所に辿り着いたときは戦闘がほぼ終了、久坂玄瑞は自刃し残りは天王山方面へ退避します。桂小五郎は、因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判するが河田は応じず、小五郎は幾松の助けを借りて但馬出石に潜伏します。朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときに世話になったのが京都三本木の美人芸者・幾松です。その後、桂小五郎は薩摩との和解、討幕など、維新につながる活躍をしていきます。

入江九一と禁門の変(蛤御門の変)

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入江九一(いりえ くいち)は長州藩足軽・入江嘉伝次の子供として、1837年、長州で生まれました。家が貧しかったため、13歳で働いて家計を支えながら学問に励んだと言われております。1854年に父が亡くなると、自分1人で家計を支える事となった為、入塾が遅れたとされています。1858年、弟・野村靖と共に吉田松陰松下村塾に入門して学ぶと頭角を現し、吉田松陰の思想から大きな影響を受けたが、師から教えを受けたのは1ヶ月余りに過ぎません。吉田松陰からは、その才覚を高く評価されて、久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の1人に数えらました。1858年、師匠の吉田松陰江戸幕府日米修好通商条約締結に激怒し、倒幕を表明。そして、長州藩に老中・間部詮勝の暗殺を計画いたします。この時、高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿らは猛反対したが、入江九一、入江和作(野村靖)兄弟だけは過激化する吉田松陰を最後まで慕い、賛成すると血判状に書名して加担しました。 吉田松陰は「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」との見聞が見られます。吉田松陰井伊直弼による安政の大獄で処刑されても、入江九一は遺志を継いで、間部詮勝を暗殺しようと計画します。また、獄中の吉田松陰からの伏見要駕策の指示を受けて、参勤の途に上る長州藩主の行列を伏見で止め、洛内に誘引して朝廷に「攘夷」を誓わせようと試みたのでありました。この無謀な策には久坂玄瑞高杉晋作ら殆どの門下生が反対したが、入江九一、和作の兄弟だけは師の考えに賛同。しかし、江戸幕府に察知されて、弟と共に岩倉獄に投獄されてしまいます。入江九一は牢内で本の筆耕などをして、母の困窮を軽くしようと努力をしたと伝えられます。吉田松陰が処刑された半年後で、1860年閏3月に入江九一、入江和作(野村靖)の兄弟が釈放されると長州藩に復帰し、吉田松陰の教えを受けたということで足軽から武士の身分に昇進し、京都で尊皇攘夷のための活動を行いました。また、高杉晋作奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となります。この頃、妹・入江すみ子が、伊藤博文と結婚している。外国船砲撃の戦いの際には、馬関総奉行として指揮しました。1864年、禁門の変では久坂玄瑞らと協力して天王山に布陣。奮戦したが、会津藩薩摩藩の前に敗れて久坂玄瑞は自刃しました。入江九一は何とか脱出しようと図ったが、敵の槍を受けて目を負傷。その場で切腹して果てたのです。(享年28)靖国神社に護国の英霊として祀られました。

寺島忠三郎と禁門の変(蛤御門の変)

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今回取り上げるのは寺島忠三郎です。長州藩で生まれました。無給通組・寺島直一の次男となります。1858年、16歳の時から長州藩の藩校・明倫館にて学んだのち、吉田松陰松下村塾にも入門し、高杉晋作久坂玄瑞らとともに学びました。寺島忠三郎は兵学を好み、詩文に長けていたとされ、吉田松陰は「些の頑骨あり、愛すべし」と評し、深く信頼しました。1859年、安政の大獄連座した吉田松陰の減刑に奔走するも、ついに吉田松陰が江戸に送致される事となり、他の塾生が涙松で別れを告げた後も、1人密かに生家のある高水まで追従し、故郷の熊毛郡呼坂まで見送り、別れの歌を交換しています。「よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん」・寺島忠三郎 1862年3月、京都に上ると攘夷運動に奔走して、京都での松陰慰霊祭では祭主を担ったのです。1862年に高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤禰武人、山尾庸三、品川弥二郎ら10名にて「御楯組」を結成します。1863年3月、京都東山の翠紅館で藩世子・毛利元徳臨席のもと、熊本藩士の轟武兵衛、久坂玄瑞と会合を開き、将軍上洛に先立ち、攘夷期限の決定を迫りました。その後も桂小五郎と供に京都に残り、攘夷親政を工作などに奔走します。1864年「八月十八日の政変」で、長州藩が失脚した後も京都に潜伏し、寺島忠三郎は変名を使って情報収集を行いました。池田屋事件新選組長州藩士を殺されたとの報が長州にもたらされると挙兵論が勃発し、慎重派の周布政之助高杉晋作、宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めたが、もはや福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老などの積極派を抑えることは出来ず、長州藩は討薩賊会奸を掲げて挙兵したのです。益田右衛門介、久坂玄瑞らは山崎天王山の宝山に、国司信濃来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣を構えました。そして、久坂玄瑞らとともに浪士隊を率いて戦うも、禁門の変(蛤御門の変)にて敗れ、寺島忠三郎は久坂玄瑞入江九一とともに鷹司邸内に立て籠もりました。しかし諸藩に包囲されて自刃。寺島忠三郎は鷹司邸にて久坂玄瑞とともに自刃したと言われております。(寺島忠三郎・享年21歳)