歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

葉隠れとは

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葉隠』は山本常朝(1659-1719)が三十三年間にわたる主君への奉公、佐賀藩士としての心得及び佐賀藩の出来事などを七年間にわたって同藩の田代陣基 に語り、それを田代が筆録し編集したものであります。十一巻から成る『葉隠』は、最初の聞書一と二が武士の本分に関する教訓であり、残りの第三から第十一が佐賀藩内、または他藩で生じた事件や、藩主の談話等の内容であるのです。全巻を貫通する精神は全て序文の「四誓願」の部分に表れております。「四誓願」は、「於武道おくれ取申間敷事」、「主君の御用に可立事」、「親に孝行可仕事」、及び「大慈悲をおこし、人の為に可成候事」という四条で成り立っています。この四条は武士として常に心掛けなければならないことであると山本は考えていのです。ところで、『葉隠』が成立したのは、「忠節の事。一番乗・一番鎗幾たびよりも、主君の御心入を直し、御国家を固め申すが、大忠節也。」(1128)と記されているように、戦場で主君のために命を捨てることから畳の上で奉公する環境に変わった時代であります。鎌倉時代や戦国時代のような「論功行賞」とは異なり、封建制度が凡そ整えられた当時において、武士は所与の家職に就くことが本分であったので、かつて戦場において主のために命を捨てることを惜しまないという主君を中心とする忠義精神は、この時代になると、その対象が「主君」から「御国家」にまで拡大し、新たな「奉公の道」が形成されていったのです。

大陸打通作戦

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太平洋戦争末期に、日本陸軍が中国戦線で実行した最大規模の進攻作戦です。正式には一号作戦と名付け、大陸打通作戦は通称で、大陸縦断作戦とも呼びました。作戦の目的は中国奥地の米空軍基地を攻略して、B29爆撃機による本土空襲を防ぐこと、海上交通が不安となったので、中国大陸を縦断して南方に至る交通線を確保すること、中国軍の武力を破砕して国民政府に打撃を与えること、などであったが、最終的には空軍基地攻略に限定されていました。16個師団に上る大兵力を使用した作戦は、1944年(昭和19)4月から翌年1月にかけて第1期の京漢作戦、第2期の湘桂作戦で、華北から仏領インドシナまでの長大な地域を連絡し、桂林、柳州、遂川などの航空基地を占領しました。しかしB29はすでにマリアナ基地に移って、日本全土に対する空襲が始まっており、大軍を動かしたことの戦略的意義はすでに失われていたのです。補給が困難だったので日本軍に大量の病死者が生じました。

ソ連対日参戦

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連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されました。
これにより、日ソ中立条約は完全に破棄、ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国樺太南部、朝鮮半島千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になったのです。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺しました。布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされたのです。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとしたが領事館の電話は回線が切られており奇襲を伝える手段は残されていなかったのです。なお、ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが、本来対ソ宣戦を決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかったのです。よって、日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強いのです。ソ連軍の攻撃は9日午前零時を以って開始されています。


ソ連対日宣戦布告においては、ソ連対日参戦の旨とその理由として、次の4点が述べられた。

1.. 日本政府が7月26日の米英中による3国宣言(ポツダム宣言)を拒否したことで、日本が提案していた和平調停の基礎は完全に失われたこと。
2.. 日本の宣言無視を受けて、連合国は、ソ連に、日本の侵略に対する連合国の戦争に参戦して世界平和の回復に貢献することを提案したこと。
3.. ソ連政府は連合国に対する義務に従って右提案を受諾し、7月26日の3国宣言にソ連も参加することを決め、各国人民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うためにソ連は対日参戦に踏み切ること。
4.. 以上の理由からソ連政府は8月9日から日本と戦争状態に入るべきこと。

原爆投下計画

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1945年8月13日に行われたアメリカの軍事専門家らによる交渉をまとめた資料はより強力な三回目の攻撃のための原爆用材料がマリアナ諸島にほぼ集められ、8月19日に用いられる可能性があった事を裏付けている。さらなる12回の攻撃用に原爆製造の準備がなされ、米国は日本が降伏するまで原爆攻撃を続ける計画だったのです。米国の特別軍事委員会は、京都や横浜、小倉、新潟さらには東京も標的にしていたと見られており、専門家らは、原爆攻撃の効果を詳しく研究したいと考えていた為、まだ通常爆弾での攻撃により大きな被害を受けていない、諸都市を選定したのです。東京は既に空襲により著しい被害を被り、東京大空襲では10万人もの市民が亡くなっていたが、特別軍事委員会は、標的のリストから決して除外はしなかったのです。しかし、8月15日日本がポツダム宣言を受け入れるかたちで降伏したため、原爆の中身などは、爆弾完成のため米国本土からマリアナ諸島へ送られる準備ができていたにもかかわらずその生産は中止となったのです。

終戦記念日を考える

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日本人の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっています。今年は戦後70周年ということで、総理談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており、ことさら「終戦の日」が強調される年となっております。日本人が終戦の日と信じる8月15日とは何でしょうか。そもそもこの日は「終戦の日」なのか、「敗戦の日」なのか。あくまでも1945年8月15日は天皇が戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾を日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」という形で直接語り掛けた日であり、武器を置き、敵対行為をやめるように命じたもので、戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえそうです。実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されておりました。事実、アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されていた。その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し、日本がそれを受け入れたことを告げ、VJデーとは対日戦勝記念日と同じ意味で9月2日の降伏文書調印を見届けた上で布告するとしていたのであります。1945年9月2日、昭和天皇は「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵外務大臣大本営(陸海軍)全権の梅津美治郎参謀総長が、降伏文書に調印し、即日発効しました。1951年9月8日には、平和条約であるサンフランシスコ平和条約が調印された。そして、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日をもって、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結することとなったのです。

ラエ・サラモアの戦い

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ラエ・サラモアの戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線における戦闘の1つです。ニューギニア島東部の要地ラエとサラモアを占領していた日本軍を、オーストラリア軍を主体とする連合軍が攻撃し、ラエとサラモアを奪還しました。日本軍は標高4,100メートルのサラワケット山系を越えて撤退しました。

 

背景:ニューギニア島のソロモン海側、マーカム川河口に面する小都市ラエと、その南方50キロに位置するサラモアは、日本軍の基地ラバウルと連合軍の基地ポートモレスビーとの中間に位置し、飛行場と港湾の適地で共に連合軍の飛行場があった。日本軍はポートモレスビー攻略を視野に入れて前進航空基地の設営を計画し、1942年3月8日にサラモアに陸軍南海支隊、ラエに海軍陸戦隊が上陸した。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われた。しかし連合軍は3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とする空母機動部隊をもってラエとサラモアの日本軍を空襲したため、付近にいた艦船は4隻が沈没、9隻が損傷した。さらに、サラモア南西方60キロにある山間部の鉱山町ワウへ、オーストラリア軍独立1個中隊および志願兵中隊を基幹とする「カンガ・フォース」を空輸した。カンガ・フォースは日本軍のポートモレスビー作戦の間、サラモア方面へゲリラ的な攻撃を仕掛けていた。1943年1月、ポートモレスビー攻略作戦での日本軍の拠点のブナ、ゴナが連合軍の手に落ちると、日本軍では連合軍の次の攻撃目標をラエ・サラモア地区と予測し、ガダルカナル島の戦いへの投入が予定されてラバウルに集結していた第51師団を第18軍に編入して、横滑りでラエ・サラモア地区へ輸送することに決定した。ラエ・サラモアの防衛のためにはまずワウの確保が必要と判断された。ワウは小規模ながら飛行場を有し、カンガ・フォースが基地として利用するとともに、連合軍のラエ・サラモア方面への攻勢拠点となりうる可能性があったためである。一方連合軍はソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面における本格的反攻に転じようとしていた。3月28日に発令されたカートホイール作戦は、ダンピール海峡の突破とラバウルの孤立化を最終目標とするもので、東部ニューギニア方面においてはラエとサラモアを最初の攻略目標としていた。この方面での連合軍部隊の主力にはオーストラリア軍第1軍団を基幹とするニューギニア・フォースがあてられた。

第1次ソロモン海戦

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ツラギの日本守備隊をほぼ全滅させた後、1万あまりの海兵隊がガ島に上陸を果たします。軍属を除く陸戦隊など戦闘要員はわずか400人ほどという日本軍は必死に応戦したが、多勢に無勢で飛行場を放棄せざるを得ませんでした。連絡を受けた日本海軍は三川軍一中将率いる第八艦隊をガ島北の海域に向かわせたのです。8日夜、待ち受けた米豪艦隊とのいわゆる第1次ソロモン海戦で、重巡洋艦「鳥海」などの三川艦隊は米軍の「アストリア」など重巡4隻を沈め、制海権を握りました。

ラバウル航空隊

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ラバウルパプアニューギニア領ニューブリテン島のガゼル半島東側、良港シンプソン湾を臨む都市。東ニューブリテン州の州都であります。ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名で、周囲は火山地帯として知られております。第二次世界大戦中の1942年には日本軍が占領し、今村均陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれます。ここはラバウル航空隊の基地があり、連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれました。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置されたのです。連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめたため、終戦時まで日本軍が保持することとなったのです。なお、食料は自活により豊富でありました。また、オーストラリア軍は日本軍占領時に大きな損害を出したためか、他の連合軍に比べ勇猛に戦ったといわれております。ラバウル航空隊とは太平洋戦争当時、ニューブリテン島ラバウル基地に集結しこの空域に展開して戦った海軍・陸軍の戦闘・爆撃・偵察・水上・各航空隊の総称である。各航空隊は本部をラバウルに置き作戦に呼応してニューギニアとソロモン方面の各基地を移動転戦した。日本海軍航空隊は前半は第21・26航空戦隊、後半は第22・25・26航空隊を主力とした。ガダルカナル攻防戦以降多数の航空隊が参戦したが、1943年後半以降については、いわゆるラバウル海軍航空隊とは主に二〇一空、二〇四空、二五三空、七〇一空を指します。ラバウル航空隊は基地航空隊としてまずポートモレスビー方面に進出した連合軍航空隊と戦闘を繰り広げ、練度高く比較的平穏な大戦初期には損害率15対1という圧倒的な勝利を報告しました。しかし、南部ソロモン方面で開始したガダルカナル島をめぐる陸海の熾烈な戦いでは基地航空隊は航空消耗戦に突入し、攻撃機隊は往復2000kmの長距離飛行の進攻作戦を強いられ、被弾に弱い機体と激しい疲労で、貴重な熟練搭乗員と機体を多数失いつつ連合軍に敗退したのです。1943年に入り連合軍に米英新型航空機が順次登場し攻防が激化する中、6月末からは中部ソロモン、ニューギニアの両方面で連合軍の本格反攻が開始され、海軍・陸軍は補給力減衰し順次後退しました。10月から激化した連合軍の空襲により空前の大規模迎撃戦が開始され、ラバウルは戦闘機隊を中心とする迎撃基地となった。1944年1月を過ぎて弱体化がはじまり、1月初めに201空が消耗し再建、続いて1月末には204空幹部が後退。2月17、18日にはトラック島が空襲されて再建中の204空が壊滅したため、2月20日253空の大部分とラバウルに進出していた第二航空艦隊がトラック島に撤収。日本軍は南太平洋方面への補給線維持が困難になると共に、戦力としてのラバウル航空隊は事実上消滅した。


ラバウルのアメリカ軍評価》
昭和17年秋のガ島を巡る航空消耗戦を外山海軍少将は「無意味な死闘」と呼んだ。貴重な熟練搭乗員を失わず温存することで日本軍は連合軍に対して史実より健闘できた可能性はあるが、連合軍側も戦術を変えた可能性がある。アメリカ軍でもラバウル航空隊の実力を高く評価しており、ニミッツ、キンケード、ハルゼーもその武名を恐れていた。
とくに勇猛で名高いハルゼーも息子が米空母ラバウル空襲の際戦死するのではないか不安だったと戦後の回想録に書かれている。ラバウルでの戦死率の高さから、アメリカ軍搭乗員からはラバウルはドラゴンジョーズ(竜の顎)と恐れられた。これはラバウルの地形が竜の顎のような入り組んだ湾であることと同時に、侵攻すれば大損害を被ることを指している。

ニューギニア戦線

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昭和17年から18年前半の東部ニューギニアは、ソロモン諸島と並んで太平洋戦争の戦局を左右する戦局の要でした。面積は世界第二位の77万平方キロのこの島は、平均降雨量2000~3000ミリという高温多湿地帯、海岸から一歩入れば千古斧を知らぬジャングルが生い茂り、人間の生存を拒否する悪条件の中で、日本軍と連合軍は血みどろな死闘を続けました。ニューギニア東南部の要衝ポートモレスビーの攻防戦で始まったこの死闘は、制海・空権を奪った連合軍に有利に展開、日本軍をジャングル深く追い詰めていったのです。大本営は19年初頭、在ニューギニア軍に対し持久策を命じるが、ジャングルの中へ追い込まれた日本軍将兵は、自活の手段さえなく、多くは飢えと病魔を敵として倒れていきました。

竹永事件

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竹永事件とは大東亜戦争ニューギニア戦線で日本軍の師団の一部が集団で、オーストラリア軍に投降した珍しい事件です。1945年(昭和20年)3月から4月頃、日本陸軍第41師団歩兵第239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペ南東内陸のトリセリー山脈南側で、追撃してくるオーストラリア軍と交戦中でありました。竹永正治中佐率いる同連隊第2大隊約50名は3月24日から、東方へ後退しつつある連隊主力とは離れて、独断で西方へ移動を始めました。ただし、竹永隊の小隊長の一人だった曹長の手記によると、逆に連隊主力の方が連絡もなく移動してしまったため、見捨てられたと判断して独自行動に移ったといわれております。4月中頃、約45人の竹永隊は、家屋数戸のタウ村に食糧を求めて侵入しました。投げ槍や手榴弾などで武装した村人が、食糧を探し始めた日本兵を攻撃し、戦闘となりました。まもなく村人は逃げ去ったが、双方に2人ずつの死者が出ました。竹永隊は翌朝にタウ村を出たが、なお付近にとどまったのです。警察隊や住民からの通報で竹永隊の存在を知ったオーストラリア陸軍は、4月16日、第2/5大隊からC・H・マイルズ中尉の率いる1個小隊を選び掃討に派遣しました。4月24日、マイルズ小隊は竹永隊と接触して銃撃戦となり、日本側2人が戦死しました。ひとまず追跡を振り切った竹永隊であったが、それ以上は戦闘を続けずに投降することに決めたのです。兵が以前から所持していた降伏勧告ビラに、英文で降伏条件などを書き加え、棒に結びつけて後へ残したのです。マイルズ小隊の斥候がビラを発見して持ち帰ったのです。5月2日、オーストラリア軍は西方のウォムグラー集落付近で竹永隊を発見し、現地人を案内に立てて接触を図っておりました。日本側から2人が軍使として訪れて交渉し、翌5月3日、竹永隊はウォムグラー集落で降伏して武装解除されたのです。このときの兵力は竹永中佐以下42人(士官5人、准士官4人、下士官・兵33人)で、軽機関銃5丁と小銃17丁、拳銃5丁、弾薬750発を装備していました。捕虜たちは、マイルズ小隊に護送されてマプリック飛行場まで3日間の行軍を整然と行い、そこからアイタペへと空輸されました。