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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

旧石器時代の日本人の起源

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過去12万年の間で、最も寒冷化が進んでいた、2万年前には、異る言語をもつ①~④の集団が、共存していたようです。日本人の起源としては、①が最も古く、④までの4集団が日本列島で一緒になり、縄文人の基になったようです。狩猟と採集で生活し、複数のキャンプ地を移動しながらの生活だったようです。家族ごとにまとまりながら、複数の家族で集団を作り、この集団単位で暮らしていたようです。大型動物の狩猟は、組織的に動かなければできないし、高度な石器づくりの伝承も考えると、複雑な言語を操っていたと推測されています。小競り合いはあっても、相手を駆逐するほどの争いはなかったと推測できます。ある程度通じ合うまで、言語の混合が進んでいたのか。あるいは、言葉を使わない沈黙交易などにより、平穏な関係を保っていたのかもしれません。サフル大陸系に近い言語とアルタイ語系(満州・シベリア)の混成かもしれません。その証拠に、それぞれの集団が持ち込んだ遺伝子は、現代まで温存されています。例えば、白血病ウィルスHTLV-1は、母子間、夫婦間で感染します。アフリカから人類の進化拡大に伴って、伝えられたと言われています。中国や朝鮮にはなく、日本人には高頻度で見つかっていますが、これを持ち込んだのは①の集団であるとの推察があります。日本人以外にこのウィルスを持つ民族は、アフリカ、オーストラリア先住民やパプアニューギニア、フィリピン、南米先住民、カリブ海住民、イヌイットスウェーデンサーミー族、南インド、イラン内陸部、イタリアです。オーストラリア先住民は、現生人類のうち、最も古くアフリカを出て広がった集団の特性を保ち、10万~5万年前には、海を渡り、オーストラリアに到達していると言われています。日本列島に現生人類が最初に渡ってきた①の集団も、この近種との推測があります。

アメリカインディアンと日本人の共通性

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1986年、アメリカ・フロリダ州の湿原でミイラ化したヒトの脳組織が発掘されました。
このミイラは年代測定の結果約7,000年前のものと判明し、従ってこの脳組織はアメリカインディアンの祖先のものとされたのです。カリフォルニア大学のスバンテ・ベーボとアラン・ウィルソンらは、この脳組織からまず、微量のmtDNAの抽出に成功しました。つぎに当時最新の画期的なDNA増幅技術・PCR法を使って、mtDNAの一部を増幅し塩基配列(DNA文字配列)の決定にも成功したのであります。
その結果は、大部分の現代人では“GGGCCC”という文字列になっている塩基配列が、このミイラは“GGACCC”となっていたのです。S・ベーボやA・ウィルソンらは、まず現代インディアンのなかにGGACCCの塩基配列を持つ人がいないかを調べたが、見出せなかったのです。ところが宝来がこれまで調べた日本人の中の5人が、ミイラと同じGGACCCという配列であることが明らかとなったのであります。このような変異型のDNA配列を持つミイラと現代日本人の一部が一致するというようなことは、偶然では起こり得ないのです。従って、現代日本人と7,000年前に生きていた北米のインディアンが、遺伝子のレベルで共通の基盤を持っていたことがわかったのであります。これは、はるか昔、アメリカインディアンの祖先が北アジアからベーリング陸橋を渡って北米大陸に移住したのです。したがってアメリカインディアンは日本人や韓国人、中国人などと同じアジアに起源する民族集団であるという常識を、図らずも証明するという極めて興味深い結果となりました。

アフリカの地を出た原人から日本人へ、、

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氷河期には海面が現在より100m低下し大陸と日本は陸続きだったそうです。100万年前獲物を追ってアフリカの地を出た原人はジャワ原人北京原人となってアジアの地まで到達しました。大陸から日本に来た獲物を追って原人も日本に来たのだろうか??原人段階の遺跡は日本で発見されているが人骨はまだ見つかっていません。日本の国土の土壌が酸性のため骨を溶かしてしまうからであります。(アルカリ性の貝塚などは発見される)人骨が発見される場所は石灰岩の洞窟、砂浜と限られます。遺跡の数から約1万人ぐらいの人口と推定されているが現在の日本人の直接の祖先である確証はないのです。20万年前アフリカの地を出た新人が5~7万年前に中国に達し日本には3万~1万2千年前までの間に段続的に流入しましたが、それ以後、大規模な渡来がなかったので原日本人はこの間に形成されたといえるのではないでしょうか。。

日本民族バイカル湖畔起源説

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日本民族バイカル湖畔起源説とは、、これまでは、弥生時代の始まりとともに大陸や朝鮮半島から大量の渡来人(弥生人)が押し寄せ、先住民(縄文人)は圧倒され駆逐されたと信じられてきました。江上波夫騎馬民族日本征服説が戦後の史学界を席巻してしまった時期もありましたが、さすがにこの推論を支持する学者はいなくなった。しかし「日本に与えた朝鮮半島の影響力を大きくみなすことこそが進歩的」という風潮は、つい最近まで残っていたように思います。ここに見るようなそういった「これまでの常識」は、もはや通用しなくなったのです。まず、かつて盛んに唱えられていた日本人南方起源説が、否定されました。人種の違いを識別できる「血液型Gm遺伝子」の分布から、日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきたことが判明したのです。「日本民族バイカル湖畔起源説」であります(松本秀雄『日本人は何処から来たか』NHKブックス)。さらに、DNA研究の進化によって、新人(ホモ・サピエンス)が15万年前にアフリカ大陸に生まれ、その後世界各地に散らばっていったことも証明されました。それだけではありません、、人類の祖は大きく3つのグループに分かれてアフリカを旅立ったが、その3つの遺伝子すべてが、日本列島にやってきたと言われます。このような例は、世界中見渡しても稀で、ここに日本人の特徴が隠されているという説があります。さらに、父から息子につながっていくY染色体の研究が急速に進み、日本人のルーツ探しが一気に加速したのでした。

港川人と日本人の起源

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港川人とは、ガンガラーの谷から約1km離れた石灰岩採石場で、1970年に発見された人骨化石です。発見された人骨は、頭から足の先まで揃い、保存状態が非常によく、現代の私たちに多くのことを教えてくれています。彼らは、約1万8000年前の旧石器時代に実際にこの地に生きていた、私たちと同じ 人類(ホモ・サピエンス)。身長はおおよそ150cm前後で、現代人に比べると小柄です。その骨格から、森の中を歩き回りながら狩猟採集の生活をしていたであろうと推測されています。現在判明している世界最古の人類は、アフリカ中部で発見された約700万年前の 猿人トゥーマイ。その後、様々な人類が誕生し絶滅しました。そして、私たちホモ・サピエンスは今から20万年ほど前にアフリカで誕生。10万~6万年前にアフリカを飛 び出し、世界中へと旅立ったと言われています。では私たちの祖先はどのような経路で日本に辿 り着いたのでしょうか。港川人の発見は、日本人の ルーツを探る重要な手がかりとなっています。港川人が、日本本土に渡り日本人の祖先となった可能性があります。しかし、その後の弥生時代に大陸から渡った別の系統の人々も含めて祖先を考える必要があると思います。

ゲノムから読み解く日本人の起源

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日本人の起源について、ゲノム分析が進み、これまで以上に複雑な混血モデルの詳細が明らかになってきた。日本の統計数理研究所を含む研究グループが、モレキュラー・バイオロジー・アンド・エボリューション誌で報告しました。「gwSNP」による解析日本人のルーツに関する仮説が数多く提唱されてきたのです。主なものに小さな突然変異を起こしたと見る「小進化説」、民族の入れ替わりがあったと見る「置換説」、複数の人種が混ざったと見る「混血説」の3 つがあります。このうち最近では、混血モデルが広く採用されています。このモデルによると、狩猟民族である縄文人は、東南アジアに起源があり、1万年以上前に日本列島に住みつき、弥生人(2000年前~3000年前に東アジア大陸から移住してきた農耕民族)と混じったと考えられます。一方、縄文人と弥生人の形態学的違いは、生活様式の変化に伴う微細な進化で説明できるという説もある。研究グループは、この議論を解決するため、縄文の直接の子孫と考えられているアイヌ人に関するゲノムワイドな1塩基多型解析(gwSNP)によるデータを使い、「近似ベイズ計算」と呼ばれる手法で3つの人口統計学のモデルを比較しました。より複雑な日本人のルーツその結果、1塩基多型を複数の人種で調べた「ハップマップ(HapMap)」計画で調べられた漢民族系中国人(CHB)が弥生人と同じ祖先をもつと仮定した場合、混血モデルの可能性が濃厚であると想定できたのです。置換説や小進化説と比べると数十倍高い確率で予測されました。さらに研究グループによるデータから、縄文人の血統は、弥生人との混血が生じる以前から、多様な人口構造が存在したというモデルが出てきたのです。地域によっては、縄文人と弥生人のそれぞれが多様性を持っていたという。祖先の間の多様性は、更新世(約258万年前から約1万年前までの期間)後期にさかのぼり、完新世(1万年前~現代)の初期の縄文人の多様性へと続くのです。この結果から、gwSNP解析によるデータで、日本人のルーツの複雑な混血モデルの詳細がさらに明らかになってきました。

日本人の起源についてスンダランドから考える

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7万年前ほどから地球は氷期に入り、大量の水が氷として陸地に固定されたために海水面が低下し、東南アジアにはスンダランドという広大な陸地が広がっていました。アフリカから世界に散っていったホモ・サピエンスの一部はここにたどり着いたと考えられます。●黒丸のところは人類の化石が出る場所であり、その年代は3万5000年前~3万4000年前ころのものであります。彼らは陸上で狩猟採集生活を送るばかりではなく、丸木船を造って海にも乗り出していました。こうして海に進出したモンゴロイド(蒙古系)の中の南方系の人たち(スンダドント)の一部は、黒潮に乗って北上し沖縄にも移り住んだと考えられます。はっきりと確認される日本で一番古い人類の化石は、沖縄の港川人といわれています。港川人は沖縄の具志頭村港川石灰岩採石場で1970年に発見されました。現在までに4体分の骨が出ています。炭素14法(14C法)で求められた年代は1万8000年前~1万6000年前を示します。同時代の東-東南アジアの人類化石と比べると、骨格は中国の山頂洞人や柳江人よりも、インドネシアから出土するワジャク人に似ているのです。こうしたことから、港川人、さらに縄文人は南方から黒潮に乗ってやってきた人たちの子孫だと考えられています。

日本民族の起源

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日本では単一民族論が広まる1960年代、明治維新百周年を前後し、神武天皇即位日とされる2月11日が建国記念日とされ、学習指導要領で神話教育の復活が図られました。それから40年後の2007年2月、伊吹文明文部科学大臣が「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実」「極めて同質的な国」という歴史認識を吐露するに至ります。文科相発言に表れているように、太古(有史以前)における「大和朝廷以来の統一国家」という歴史認識単一民族国家観と深く結びついております。天皇が「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であるとする日本国憲法1条も、突き詰めれば、この歴史観に支えられているのではないでしょうか。神話・伝説が国民統合や領有権の正当化に使われてきた状況を、欧州諸国を例に検証しているが、神話による民族の創造という点では、日本の実例はより顕著なものといえるでしょう。日本は近代国家誕生にあたり、記紀神話に基づき、大君制を否定して天皇制国家を樹立し、民族の形成を図ったのです。記紀とは、日本最古の文書である古事記(712年)と日本書紀(720年)であります。

武士の起源について

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大和魂の源泉である、武士の起源について調べてみました。古代からずっと、平安時代頃までは、朝廷が政治の中心でした。天皇を頂点とした大和朝廷が成立しても、異民族の隼人や蝦夷との戦いのために朝廷が統制する軍隊のようなものがありました。軍隊のようなもの、つまり、武士の原形は朝廷が確立する前から存在していたわけで、最初は朝廷を構成する豪族やその配下の一族が担当していました。最初は、異民族と戦って朝廷の勢力を拡げる軍の最高指揮官が「征夷大将軍」であり、その職はそこそこ位の高い貴族が担当していました。やがて異民族の反乱が治まり日本国中に朝廷の権威が広まると、討伐軍は不要になり【征夷大将軍】は形だけの職位になりました。軍隊は朝廷警護が中心となって、高級貴族の側で警護するという意味で「侍」と呼ばれるようになり、下級貴族が担当するようになりました。下級貴族とはいっても、天皇の何番目かの皇子の子孫が地方に下って、その地域を治める役人(実質的には長官だったり、長官の下の官僚)になって、そのまま土着することが多かったのです。このことについて、現在は3つの仮説がございます。

 

1つ目は在地領主論と呼ばれるもので、平安時代末期の日本が中世であったと考えることからスタートします。地域を封建的に治める大農園主が、武装をしたことがその起源とする説になります。かなり有力な学説ではありますが、源氏や平氏といった、時代を動かした武士の起源を説明することはできないという指摘もあります。


2つ目は職能論というものです。ごくシンプルに伝えるならば、家業として武芸を身につけていった専門的な武装集団があり、国家から認定された軍事的な下請け業者が起源であるという説になります。こちらも有力ではありますが、地方武士に関しては説明がつかないこともあり、決定的とは言えません。

3つ目は国衙軍制論と呼ばれるものとなります。平安時代の中期頃から、租税の徴収を朝廷から請け負う田堵負名という存在がありました。

 

末法思想とは

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今日はヤマト魂と直接的に結びつかない内容ですが、調べてみました。末法思想とは、釈尊の入滅後,年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言,およびそれに基づく思想です。正法,像法の時代を経て,教えのみ残り,修行も悟りも得られなくなる末法に入るとされます。これは仏教の歴史観の一で、末法に入ると仏教が衰えるとする思想とも一致いたします。日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行しました。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとしました。

日本の国風文化(10世紀〜 11世紀)として、末法思想は釈迦の立教以来千年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の千年を像法(ぞうぼう)、その後一万年を末法の三時に分けて、末法においては仏法が正しく行われなくなる、とする考え方で一般的には、1052年(永承7年)は末法元年とされ ていますので日本の国風文化時期に該当します。この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しました。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していき、このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒して 仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与え、法然を開祖とする浄土宗や親鸞を開祖とする浄土真宗などは末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし称名念仏による救済を広めました。また同時期、天台宗出身の日蓮末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ信じて行うべき法を求め、法華経こそが正しい教えであるとし、南無妙法蓮華経と唱えることを広めたとされています。