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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

 今昔物語と大和魂

『今昔物語』で、善澄という学問のある人の話で、この人の家に強盗団がやってきた。善澄は縁の下でじっと息をひそめていた。強盗団が物を奪って家を出て行ったとき、彼は腹立ち紛れに、「お前らの顔は見た。検非違使に訴えてやる」と、怒鳴った。すると強盗…

大和魂と大鏡

『大鏡』では藤原時平(871~909)に対して、〈かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを〉とあります。藤原時平が、大和魂を持つ人物として評価されています。 …

語源で探る大和魂

日本民族の精神を象徴する言葉として大和魂とは、『源氏物語-乙女巻』に「なほ才を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強う侍(はべ)らめ、さし当たりては、心もとなき様に侍りとも、終の世の重しと成るべき」と記述が出て参ります。また『大鏡…

源氏物語と日本人

源氏物語がいつごろ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのか、それを明らかにする資料はないものの、1008年には冊子作りが行われていたそうです。約100万文字、22万文節、400字詰め原稿用紙で約2400枚という大作で、日本においても海外においても、「世界…

紫式部と大和魂

遣隋使や遣唐使によって日本に中国伝来の漢学の知識が流入したのであるが彼女はそれを「才」と称しこれまでの日本にあった精神=日本人としての知恵を「大和魂」とよびました。そして「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」すなわち…

西郷隆盛と陽明学

明治新政府樹立後、九州での萩など佐賀、そして神風連の乱が熊本で相次いで勃発しましたが、これ以外にも全国的に新政府に対する不満は日を追うごと増し、このまま続けば、いかに新政府といえども押さえられないような状態になるのは明らかな状況でした。城…

日本人の起源(成立モデル)

私たちは古代の歴史の流れの延長線上にいます。古代の歴史は私たちの過去の歴史であると同時に、未来への正しい道案内人でもあるのです。古代の歴史を正しく知ることは、未来を正しく生きるために必要な要素です。そして古代を正しく知るためには、さらにそ…

ゲノムから見る日本人の起源

日本人のルーツ、ゲノム分析が進み、さらなる詳細が明らかに、、日本人の起源について、ゲノム分析が進み、これまで以上に複雑な混血モデルの詳細が明らかになってきました。「gwSNP」による解析 日本人のルーツに関する仮説が数多く提唱されてきました。主…

日本人の身長の高さ(日本人の起源・番外編)

2012年(平成24年)に行った調査によると、日本人男性の平均身長は167.3cm、平均体重は66.0kgだそうです。一方、日本人女性の平均身長は154.2cm、平均体重は53.0kg。周りを見渡してみてもだいたいそれくらいだろうなぁ、なんて感じる数値ですね。さらに20代…

ミトコンドリアDNAからみる日本人の起源

遺伝子研究のパイオニア、ジェネシスヘルスケアによると、母親からのみ遺伝するDNAである「ミトコンドリアDNA」を検査して母方の家系を辿ると、「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれる「ある一人の女性」に辿り着くといいます。そのたった一人の女性が果たして…

旧石器時代の日本人の起源

過去12万年の間で、最も寒冷化が進んでいた、2万年前には、異る言語をもつ①~④の集団が、共存していたようです。日本人の起源としては、①が最も古く、④までの4集団が日本列島で一緒になり、縄文人の基になったようです。狩猟と採集で生活し、複数のキャ…

アメリカインディアンと日本人の共通性

1986年、アメリカ・フロリダ州の湿原でミイラ化したヒトの脳組織が発掘されました。このミイラは年代測定の結果約7,000年前のものと判明し、従ってこの脳組織はアメリカインディアンの祖先のものとされたのです。カリフォルニア大学のスバンテ・ベーボとアラ…

アフリカの地を出た原人から日本人へ、、

氷河期には海面が現在より100m低下し大陸と日本は陸続きだったそうです。100万年前獲物を追ってアフリカの地を出た原人はジャワ原人や北京原人となってアジアの地まで到達しました。大陸から日本に来た獲物を追って原人も日本に来たのだろうか??原人段…

日本民族バイカル湖畔起源説

日本民族バイカル湖畔起源説とは、、これまでは、弥生時代の始まりとともに大陸や朝鮮半島から大量の渡来人(弥生人)が押し寄せ、先住民(縄文人)は圧倒され駆逐されたと信じられてきました。江上波夫の騎馬民族日本征服説が戦後の史学界を席巻してしまっ…

港川人と日本人の起源

港川人とは、ガンガラーの谷から約1km離れた石灰岩採石場で、1970年に発見された人骨化石です。発見された人骨は、頭から足の先まで揃い、保存状態が非常によく、現代の私たちに多くのことを教えてくれています。彼らは、約1万8000年前の旧石器時代に実際に…

ゲノムから読み解く日本人の起源

日本人の起源について、ゲノム分析が進み、これまで以上に複雑な混血モデルの詳細が明らかになってきた。日本の統計数理研究所を含む研究グループが、モレキュラー・バイオロジー・アンド・エボリューション誌で報告しました。「gwSNP」による解析日本人のル…

日本人の起源についてスンダランドから考える

7万年前ほどから地球は氷期に入り、大量の水が氷として陸地に固定されたために海水面が低下し、東南アジアにはスンダランドという広大な陸地が広がっていました。アフリカから世界に散っていったホモ・サピエンスの一部はここにたどり着いたと考えられます。…

日本民族の起源

日本では単一民族論が広まる1960年代、明治維新百周年を前後し、神武天皇即位日とされる2月11日が建国記念日とされ、学習指導要領で神話教育の復活が図られました。それから40年後の2007年2月、伊吹文明文部科学大臣が「大和民族が日本の国を統治してきたこ…

武士の起源について

大和魂の源泉である、武士の起源について調べてみました。古代からずっと、平安時代頃までは、朝廷が政治の中心でした。天皇を頂点とした大和朝廷が成立しても、異民族の隼人や蝦夷との戦いのために朝廷が統制する軍隊のようなものがありました。軍隊のよう…

末法思想とは

今日はヤマト魂と直接的に結びつかない内容ですが、調べてみました。末法思想とは、釈尊の入滅後,年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言,およびそれに基づく思想です。正法,像法の時代を経て,教えのみ残り,修行も悟りも得られ…

葉隠れとは

『葉隠』は山本常朝(1659-1719)が三十三年間にわたる主君への奉公、佐賀藩士としての心得及び佐賀藩の出来事などを七年間にわたって同藩の田代陣基 に語り、それを田代が筆録し編集したものであります。十一巻から成る『葉隠』は、最初の聞書一と…

大陸打通作戦

太平洋戦争末期に、日本陸軍が中国戦線で実行した最大規模の進攻作戦です。正式には一号作戦と名付け、大陸打通作戦は通称で、大陸縦断作戦とも呼びました。作戦の目的は中国奥地の米空軍基地を攻略して、B29爆撃機による本土空襲を防ぐこと、海上交通が不安…

ソ連対日参戦

連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されました。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄、ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地…

原爆投下計画

1945年8月13日に行われたアメリカの軍事専門家らによる交渉をまとめた資料はより強力な三回目の攻撃のための原爆用材料がマリアナ諸島にほぼ集められ、8月19日に用いられる可能性があった事を裏付けている。さらなる12回の攻撃用に原爆製造の準備がなされ、…

終戦記念日を考える

日本人の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっています。今年は戦後70周年ということで、総理談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており、ことさら「終戦の日」が強調される年となっております。日本人が終戦の日と信じる8月15日とは何でしょうか。…

ラエ・サラモアの戦い

ラエ・サラモアの戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線における戦闘の1つです。ニューギニア島東部の要地ラエとサラモアを占領していた日本軍を、オーストラリア軍を主体とする連合軍が攻撃し、ラエとサラモアを奪還しました。日本軍は標高…

第1次ソロモン海戦

ツラギの日本守備隊をほぼ全滅させた後、1万あまりの海兵隊がガ島に上陸を果たします。軍属を除く陸戦隊など戦闘要員はわずか400人ほどという日本軍は必死に応戦したが、多勢に無勢で飛行場を放棄せざるを得ませんでした。連絡を受けた日本海軍は三川軍…

ラバウル航空隊

ラバウルはパプアニューギニア領ニューブリテン島のガゼル半島東側、良港シンプソン湾を臨む都市。東ニューブリテン州の州都であります。ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名で、周囲は火山地帯として知られております。第二次世界大戦中の1…

ニューギニア戦線

昭和17年から18年前半の東部ニューギニアは、ソロモン諸島と並んで太平洋戦争の戦局を左右する戦局の要でした。面積は世界第二位の77万平方キロのこの島は、平均降雨量2000~3000ミリという高温多湿地帯、海岸から一歩入れば千古斧を知らぬジャングルが生い…

竹永事件

竹永事件とは大東亜戦争のニューギニア戦線で日本軍の師団の一部が集団で、オーストラリア軍に投降した珍しい事件です。1945年(昭和20年)3月から4月頃、日本陸軍第41師団歩兵第239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペ南東内陸のトリセリー山脈南側で、追…

ポートモレスビー侵攻作戦(オーエンスタンレー山脈越え)

パプアニューギニア本島の珊瑚海側にあるポートモレスビーは文字通り天然の良港です。これは沖合に一直線に伸びた環礁の一部があり、これが見事な防波堤の役割をしており、内海は水深 50m 位で、うねりは全く入ってこなく大艦隊が停泊可能ですから海軍が着目…

ダンピールの悲劇

前線基地ラバウルのあるニューブリテン島と、ニューギニア島の間にはダンピール海峡と呼ばれる海峡があります。昭和18年初旬、日本軍はラエで壊滅的な打撃を受けていたが、体勢の建て直しをはかって、第51師団の残る7千名を8隻の輸送船でラエ地区に上陸させ…

第二次長州征伐

幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。幕府は蛤御門(はまぐりごもん)の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵します。のち、長州藩首脳のこの処置に不…

第一次長州征伐

第一次長州征伐とは、禁門の変の処分のために幕府が長州に対し成敗するための軍事行動です。単独での外国船砲撃など過激で急進的な攘夷活動が目立っていた長州藩でしたが、朝廷への影響力も強まってきておりました。そのカウンターとして薩摩藩、会津藩は朝…

会津藩、新撰組の禁門の変(蛤御門の変)

一橋慶喜が禁裏御守衛総督、桑名藩主の松平定敬は京都所司代に就任し、会津藩で兄弟である松平容保と次第に連携を深めていきます。この連立権力は、頭文字をとって一会桑の権力と呼ばれています。会津藩は、そのなかで軍事面の中核を担いました。1863年…

高杉晋作と禁門の変(蛤御門の変)

京都では「八・一八の政変」が起こりました。 これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。 一つは遊撃隊の総督を務めていた来島…

西郷隆盛と禁門の変(蛤御門の変)

元冶元(1864)年2月28日、西郷は沖永良部島に幽閉されてから約1年8ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、この時以降に西郷の縦…

桂小五郎と禁門の変(蛤御門の変)

桂小五郎はご存じ後の木戸孝允です。長州藩の上士出身で家格も高く吉田松陰先生とも懇意にしておりました。禁門の変の前後の動向として、1864年の池田屋事件では、桂小五郎の到着が早すぎた為に本拠地にもどった間に事件が起こり難を逃れたとも、居合わせた…

入江九一と禁門の変(蛤御門の変)

入江九一(いりえ くいち)は長州藩の足軽・入江嘉伝次の子供として、1837年、長州で生まれました。家が貧しかったため、13歳で働いて家計を支えながら学問に励んだと言われております。1854年に父が亡くなると、自分1人で家計を支える事となった為、入塾が遅…

寺島忠三郎と禁門の変(蛤御門の変)

今回取り上げるのは寺島忠三郎です。長州藩で生まれました。無給通組・寺島直一の次男となります。1858年、16歳の時から長州藩の藩校・明倫館にて学んだのち、吉田松陰の松下村塾にも入門し、高杉晋作や久坂玄瑞らとともに学びました。寺島忠三郎は兵学を好…

益田親施と禁門の変

益田親施(ますだちかのぶ)は長州藩永代家老・益田元宣の3男として1802年に生まれました。益田親施の益田家は、もともと毛利元就に仕えた家老で、周布政之助も一族であります。父・益田元宣は村田清風と共に藩政改革に当たり、明倫館の拡大移転も総奉行として…

国司信濃と禁門の変(蛤御門の変)

長州藩家老・国司親相(国司信濃)寄組・高洲元忠の次男として誕生し、同じ寄組の国司家(五六〇〇石)の養嗣子となり、五歳で家督を継ぎました。国司家は毛利元就の嫡男・隆元の傅役を務めた元相に遡る重臣の家系です。寄組の中でも最上位の名家であることに…

来島又兵衛と禁門の変(蛤御門の変)

来島又兵衛は長門国厚狭郡西高泊村の長州藩・無給通組の次男として生まれました。若い頃より文武に長け血気盛んだったようで、大津郡俵山村の大組上士・長門来島家の来島又兵衛政常の跡取りとして婿養子となりました。1841年、九州・柳川藩に赴くと、大石神…

真木和泉と禁門の変(蛤御門の変)

文化10年(1813)3月7日、筑後国久留米城下瀬下町にある水天宮神官真木左門旋臣(としおみ)の家では待望の男の子が呱々の声をあげた。幕末維新の志士たちの多くがまだこの世に生まれ出ていなかった。真木和泉を中心に数えれば、横井小楠4歳、佐久…

久坂玄瑞と禁門の変(蛤御門の変)

1863年8月18日の八月十八日の政変で長州勢が朝廷より一掃されたが、久坂玄瑞は京都詰の政務座役として在京して失地回復を図ったが、一方で薩摩藩は会津藩と手を組み、長州藩は苦境に立たされていきます。三条実美・真木和泉・来島又兵衛らの唱える「武力をも…

禁門の変(蛤御門の変)

蛤御門の変とも言う。この門は「新在家御門」と言われ開かずの扉であったが、1788年の天明の大火で御所が炎上した折、初めて開門された。この為、禁門が「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門(俗称)と呼ばれるようになった。1864年に尊王攘夷派(長州藩)と…

池田屋事件とは、、

新選組は尊攘激派浪士の京都市中焼討ちというテロ計画の情報を得て、急いでパトロールを始めたら浪士たちの池田屋における集会を発見し、闘争におよんだというのが定説になっています。浪士たちが池田屋に集ったのは、古高俊太郎が逮捕されたのを知って、そ…

池田屋事件の生還者、有吉熊次郎

有吉熊次郎は、長州藩士、尊皇攘夷派の志士で熊次郎は通称で、諱は良明、本姓は藤原氏を称し、墓碑の刻字には藤原良明とあります。贈正五位で、作家有吉佐和子の曾祖父にあたります。天保13年(1842年)に長州藩士有吉忠助の次男として生まれます。藩校の明…

殺された池田屋の主人

文政6年(1823年)に生まれ、出身地は長州といわれているが不明であります。その後、京都三条通りの三条小橋西4軒目の北側に旅籠・池田屋を開業し、長州藩士の定宿となります。元治元年(1864年)6月5日の夜に起こった、池田屋事件では、御用改めに入った新…

大高又次郎と池田屋事件

安政5年(1858年)に大高又次郎は脱藩し上京、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰先生門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいました。安政6年には萩へ赴き吉田松陰先生とも会談を行っております。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄っ…