読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

幕末

西郷隆盛と陽明学

明治新政府樹立後、九州での萩など佐賀、そして神風連の乱が熊本で相次いで勃発しましたが、これ以外にも全国的に新政府に対する不満は日を追うごと増し、このまま続けば、いかに新政府といえども押さえられないような状態になるのは明らかな状況でした。城…

第二次長州征伐

幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。幕府は蛤御門(はまぐりごもん)の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵します。のち、長州藩首脳のこの処置に不…

第一次長州征伐

第一次長州征伐とは、禁門の変の処分のために幕府が長州に対し成敗するための軍事行動です。単独での外国船砲撃など過激で急進的な攘夷活動が目立っていた長州藩でしたが、朝廷への影響力も強まってきておりました。そのカウンターとして薩摩藩、会津藩は朝…

会津藩、新撰組の禁門の変(蛤御門の変)

一橋慶喜が禁裏御守衛総督、桑名藩主の松平定敬は京都所司代に就任し、会津藩で兄弟である松平容保と次第に連携を深めていきます。この連立権力は、頭文字をとって一会桑の権力と呼ばれています。会津藩は、そのなかで軍事面の中核を担いました。1863年…

高杉晋作と禁門の変(蛤御門の変)

京都では「八・一八の政変」が起こりました。 これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。 一つは遊撃隊の総督を務めていた来島…

西郷隆盛と禁門の変(蛤御門の変)

元冶元(1864)年2月28日、西郷は沖永良部島に幽閉されてから約1年8ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、この時以降に西郷の縦…

桂小五郎と禁門の変(蛤御門の変)

桂小五郎はご存じ後の木戸孝允です。長州藩の上士出身で家格も高く吉田松陰先生とも懇意にしておりました。禁門の変の前後の動向として、1864年の池田屋事件では、桂小五郎の到着が早すぎた為に本拠地にもどった間に事件が起こり難を逃れたとも、居合わせた…

入江九一と禁門の変(蛤御門の変)

入江九一(いりえ くいち)は長州藩の足軽・入江嘉伝次の子供として、1837年、長州で生まれました。家が貧しかったため、13歳で働いて家計を支えながら学問に励んだと言われております。1854年に父が亡くなると、自分1人で家計を支える事となった為、入塾が遅…

寺島忠三郎と禁門の変(蛤御門の変)

今回取り上げるのは寺島忠三郎です。長州藩で生まれました。無給通組・寺島直一の次男となります。1858年、16歳の時から長州藩の藩校・明倫館にて学んだのち、吉田松陰の松下村塾にも入門し、高杉晋作や久坂玄瑞らとともに学びました。寺島忠三郎は兵学を好…

益田親施と禁門の変

益田親施(ますだちかのぶ)は長州藩永代家老・益田元宣の3男として1802年に生まれました。益田親施の益田家は、もともと毛利元就に仕えた家老で、周布政之助も一族であります。父・益田元宣は村田清風と共に藩政改革に当たり、明倫館の拡大移転も総奉行として…

国司信濃と禁門の変(蛤御門の変)

長州藩家老・国司親相(国司信濃)寄組・高洲元忠の次男として誕生し、同じ寄組の国司家(五六〇〇石)の養嗣子となり、五歳で家督を継ぎました。国司家は毛利元就の嫡男・隆元の傅役を務めた元相に遡る重臣の家系です。寄組の中でも最上位の名家であることに…

来島又兵衛と禁門の変(蛤御門の変)

来島又兵衛は長門国厚狭郡西高泊村の長州藩・無給通組の次男として生まれました。若い頃より文武に長け血気盛んだったようで、大津郡俵山村の大組上士・長門来島家の来島又兵衛政常の跡取りとして婿養子となりました。1841年、九州・柳川藩に赴くと、大石神…

真木和泉と禁門の変(蛤御門の変)

文化10年(1813)3月7日、筑後国久留米城下瀬下町にある水天宮神官真木左門旋臣(としおみ)の家では待望の男の子が呱々の声をあげた。幕末維新の志士たちの多くがまだこの世に生まれ出ていなかった。真木和泉を中心に数えれば、横井小楠4歳、佐久…

久坂玄瑞と禁門の変(蛤御門の変)

1863年8月18日の八月十八日の政変で長州勢が朝廷より一掃されたが、久坂玄瑞は京都詰の政務座役として在京して失地回復を図ったが、一方で薩摩藩は会津藩と手を組み、長州藩は苦境に立たされていきます。三条実美・真木和泉・来島又兵衛らの唱える「武力をも…

禁門の変(蛤御門の変)

蛤御門の変とも言う。この門は「新在家御門」と言われ開かずの扉であったが、1788年の天明の大火で御所が炎上した折、初めて開門された。この為、禁門が「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門(俗称)と呼ばれるようになった。1864年に尊王攘夷派(長州藩)と…

池田屋事件とは、、

新選組は尊攘激派浪士の京都市中焼討ちというテロ計画の情報を得て、急いでパトロールを始めたら浪士たちの池田屋における集会を発見し、闘争におよんだというのが定説になっています。浪士たちが池田屋に集ったのは、古高俊太郎が逮捕されたのを知って、そ…

池田屋事件の生還者、有吉熊次郎

有吉熊次郎は、長州藩士、尊皇攘夷派の志士で熊次郎は通称で、諱は良明、本姓は藤原氏を称し、墓碑の刻字には藤原良明とあります。贈正五位で、作家有吉佐和子の曾祖父にあたります。天保13年(1842年)に長州藩士有吉忠助の次男として生まれます。藩校の明…

殺された池田屋の主人

文政6年(1823年)に生まれ、出身地は長州といわれているが不明であります。その後、京都三条通りの三条小橋西4軒目の北側に旅籠・池田屋を開業し、長州藩士の定宿となります。元治元年(1864年)6月5日の夜に起こった、池田屋事件では、御用改めに入った新…

大高又次郎と池田屋事件

安政5年(1858年)に大高又次郎は脱藩し上京、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰先生門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいました。安政6年には萩へ赴き吉田松陰先生とも会談を行っております。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄っ…

池田屋事件と土佐藩の北添佶摩

北添佶摩(キタゾエキツマ)は、商家の出身で19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となります。開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学びます。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共…

桂小五郎(木戸孝允)と池田屋事件

池田屋事件では池田屋へ一番早く行ったが、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行っており、小五郎は運良く難を逃れたと言われております。新選組が池田屋を襲撃したのは、対馬藩邸に行っている間に起こったのです。池田屋事件の発端となった…

熊本の尊皇攘夷派、宮部鼎蔵と池田屋事件

宮部鼎蔵は1820年4月、肥後国益城郡田代村で、春吾の長男として生まれました。代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいます。家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就き、山鹿流軍学を学んだのです。その後、兵学師範で…

松陰門下の四天王、吉田稔麿と池田屋事件

吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀とゆわれたほどの人物です。吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれます。松陰先生主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き…

古高俊太郎と池田屋事件

池田屋事件とは、幕末の元治元年 6 月 5 日(1864 年 7 月 8 日)に、京都三条木屋町の旅館・池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件です。池田屋騒動とも言われております。幕末の…

勤王商人・古高俊太郎と福寿院

滋賀の福寿院には、幕末の志士・古高俊太郎の大きな顕彰碑がございます。池田屋事件(1864)にかかわったことで有名な古高俊太郎は、福寿院の住所でもわかるとおり(滋賀県守山市古高町158)古くから地元の名族名士の古高一族の出身で、激動する時代の中、尊皇…

勤王商人、白石正一郎

下関竹崎で荷受問屋を営み、清末藩御用達を勤めた白石正一郎です。正一郎は、近世に港湾都市として栄えた下関において、大きな経済効果を生む諸国の廻船交易に参入できない新興商人でした。そのため、藩内外の交易相手に機敏に対応し、商利を求めて積極的に…

吉田松陰先生の三余説

松陰先生が下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても兄の梅太郎の協力があってこそのことであります。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛…

陽明学と吉田松陰先生

松蔭先生は軍学、兵学ばかりでなく、国学、儒学、史学も学んでいますが、特に儒学の一種の陽明学を深く学んでいたのです。この陽明学にある教えに知行合一がありますが、それは実践重視主義を重視し、説明すると「思想は行動が共なってこそ完成する。言行一…

勤王僧、月性とは

月性は、文化14年、妙円寺に生まれました。15歳のとき天保2年から4年余り、福岡県豊前市の恒遠醒窓の元で詩文を学びさらに漢詩文・仏教を学び、優れた詩人としての基礎も作りました。嘉永元年には、清狂草堂を開塾し、遠近より入塾を希望する若者が集ま…

吉田松陰先生と勤王僧、月性

松陰先生は月性より13歳若く、松陰が幼子のころから月性は、杉家と親交を交え、特に松陰の兄梅太郎とはたいへん仲の良い間柄でした。月性と松陰先生は、詩文の批評を交換し時事を論じるなどの書簡の往復を始めたことから関係が深まります。その始まりは松…

吉田松陰先生の最後の振る舞い

1859年(安政6年)5月25日早朝、松陰先生は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かいました。松陰先生が江戸に送られた罪状は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰先生に会った事を話したことが理由でした。江戸の評定所が松陰先生に問いただしたの…

戊辰戦争とは

戊辰戦争の前哨戦である鳥羽伏見の戦いは、慶応4年、1868年に鳥羽の小枝橋付近で戦端が開かれました。旧幕府軍約15,000名と、薩摩藩、長州藩、土佐藩が主力の約5,000名が激しい戦闘を繰り広げました。旧幕府軍の主力は会津藩、桑名藩、新選組、京都見廻…

徳川斉昭と偕楽園

徳川斉昭と偕楽園 幕末の水戸藩主・勤王家。烈公とも呼ばれており、徹底した尊王でありました。まさに大和魂を体現し、その思想を水戸から広める重要な人物だとおもいます。徳川斉昭は改革派の人材を登用し、自分の擁立に功があった下士層から藤田東湖、武田…

藤田小四郎と天狗党の乱

江戸末期の水戸藩士。東湖の四男。名は信、字は子立、小四郎は通称です。幼少より父東湖に水戸学を学び、詩文にも長じました。文久3年には長州藩の桂小五郎らと東西呼応しての挙兵をはかったが果たせませんでした。そこで元治元年3月、同志を募り、筑波山に…

武田耕雲斎と天狗党の乱

幕末尊攘派の水戸藩士の跡部正続の長子として生まれ、本家を継いだのち跡部の旧姓武田を名乗ります。名は正生(まさなり)で耕雲斎は号となります。9代藩主徳川斉昭の藩政改革の尽力した改革派の重臣です。元治元年3月、藤田小四郎らが筑波山の挙兵したとき…

天狗党の乱

幕末、外国からの圧力が強まる中、「攘夷」の実行を幕府に迫るために決起した者たちがいました。 水戸藩浪人たちを主とする一団で藤田小四郎(藤田東湖の四男)を中心に62人で決起いたします。武田耕雲斎なども合流し首領として指揮を執ります。元治元年(186…

吉田松陰先生と水戸学

幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学発祥の地の水戸で弘道館初代教授頭取を務めた会沢正志斎が書いた新論は、吉田松陰にも大きな影響を与えました。22歳の松陰先生が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月から翌年1月にかけてであります。…

尊王攘夷運動

国家存在の根拠としての尊王思想と侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う」の意味となり、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄を打ち払うという意味です。覇者が用いた標語を日本の国学者…

桜田門外の変

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」であります。 この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習し…

会沢正志斎と新論

会沢正志斎は日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者 藤田東湖と並び水戸学の代表的思想家で、父親は会沢恭敬、母は根本重政の娘となります。藤田幽谷の青藍舎へ入門いたします。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を書きました。…

藤田東湖と水戸学

水戸藩の学者藤田幽谷の二男として生まれ,父は青藍舎という塾を開いており、幼いころから学問に興味を持ちながら成長。14歳の時,父に従って江戸の地を踏むと武道にもめざめ、神道無念流の岡田十松に入門しました。19歳の時,イギリスの捕鯨船員12人…

藤田幽谷と水戸学

水戸学は国学と共に近世ナショナリズムの源泉であり、幕末、尊王懐夷思想の根拠になりました。水戸学が生まれたのは、水戸藩の第2代藩主徳川光圀が中国の「史記」を範とする日本史を構想して多くの学者を招聰し、彰考館を創設して編纂事業を始めたことによ…

松陰先生の諸生に示す

「諸生に示す」松陰全集第四巻 357 頁収載(戌午幽室文稿)安政五年六月二十三日(1858)先に書いた「煙管を折るの記」は松下村塾の塾風を知るのに、貴重な資料であったが、この「諸生に示す」は、集団教育に対する松陰の考え方を知るのに好都合な資料である…

宮部鼎蔵宛の書簡

「宮部鼎蔵宛」嘉永六年六月十六日 松陰在江戸・宮部在肥後(前半原漢文)久しく華翰に接せず、渇望日に甚し。五月二十四日江戸に抵り、梁山泊に投ず。即日家兄の書を得、封を開けば則ち貴書あり、喜幸抃躍、急に展べて之れを讀む。未だ數行ならざるに魂を消…

草莽崛起論

北山安世は、松陰が終生、師と仰いだ佐久間象山の甥であり、嘉永六年江戸遊学以来の 友人である。このとき、北山は長崎遊学の帰途、萩に立ち寄った。松陰は北山に自らの 時局観を披瀝し「 独立不羈三千年来の大日本...那波列翁を起してフレーヘードを唱へ …

二十一回猛士

松陰も号でありますが、松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使いました。これは、その由来を書いたものです。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけであります。すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田…

松下村塾記

松陰先生の先見の明が現る一文 【内容】 長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく…

勝海舟の漢詩

多年の蹤跡 埃塵に没す たねんのしょうせき あいじんにぼっす 心情を揣摩して 天眞を思うしんじょうをしまして てんしんをおもう華屋美なりと雖も 是浮榮かおくびなりといえども これふえい 富は泡沫の如く 名は煙の如しとみはほうまつのごとく なはけむりの…

七生説

「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候ヘ」(太平記より) (丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)二十七歳 天の茫々ぼうぼうたる、一理いちりありて存そんし、父子祖孫そそんの綿々めんめんたる、一気ありて属つづく。人の生うま…

留魂録

『留魂録』は松陰が門下生に残した遺書である。松陰は十月二十七日に処刑されたが、これはその前日の二十五日から二十六日夕刻にかけて書き上げられた物です。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」と、大和魂を留めて七生報国すると念じた歌…