歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

幕末

吉田松陰先生の最後の振る舞い

1859年(安政6年)5月25日早朝、松陰先生は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かいました。松陰先生が江戸に送られた罪状は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰先生に会った事を話したことが理由でした。江戸の評定所が松陰先生に問いただしたの…

戊辰戦争とは

戊辰戦争の前哨戦である鳥羽伏見の戦いは、慶応4年、1868年に鳥羽の小枝橋付近で戦端が開かれました。旧幕府軍約15,000名と、薩摩藩、長州藩、土佐藩が主力の約5,000名が激しい戦闘を繰り広げました。旧幕府軍の主力は会津藩、桑名藩、新選組、京都見廻…

徳川斉昭と偕楽園

徳川斉昭と偕楽園 幕末の水戸藩主・勤王家。烈公とも呼ばれており、徹底した尊王でありました。まさに大和魂を体現し、その思想を水戸から広める重要な人物だとおもいます。徳川斉昭は改革派の人材を登用し、自分の擁立に功があった下士層から藤田東湖、武田…

藤田小四郎と天狗党の乱

江戸末期の水戸藩士。東湖の四男。名は信、字は子立、小四郎は通称です。幼少より父東湖に水戸学を学び、詩文にも長じました。文久3年には長州藩の桂小五郎らと東西呼応しての挙兵をはかったが果たせませんでした。そこで元治元年3月、同志を募り、筑波山に…

武田耕雲斎と天狗党の乱

幕末尊攘派の水戸藩士の跡部正続の長子として生まれ、本家を継いだのち跡部の旧姓武田を名乗ります。名は正生(まさなり)で耕雲斎は号となります。9代藩主徳川斉昭の藩政改革の尽力した改革派の重臣です。元治元年3月、藤田小四郎らが筑波山の挙兵したとき…

天狗党の乱

幕末、外国からの圧力が強まる中、「攘夷」の実行を幕府に迫るために決起した者たちがいました。 水戸藩浪人たちを主とする一団で藤田小四郎(藤田東湖の四男)を中心に62人で決起いたします。武田耕雲斎なども合流し首領として指揮を執ります。元治元年(186…

吉田松陰先生と水戸学

幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学発祥の地の水戸で弘道館初代教授頭取を務めた会沢正志斎が書いた新論は、吉田松陰にも大きな影響を与えました。22歳の松陰先生が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月から翌年1月にかけてであります。…

尊王攘夷運動

国家存在の根拠としての尊王思想と侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う」の意味となり、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄を打ち払うという意味です。覇者が用いた標語を日本の国学者…

桜田門外の変

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」であります。 この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習し…

会沢正志斎と新論

会沢正志斎は日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者 藤田東湖と並び水戸学の代表的思想家で、父親は会沢恭敬、母は根本重政の娘となります。藤田幽谷の青藍舎へ入門いたします。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を書きました。…

藤田東湖と水戸学

水戸藩の学者藤田幽谷の二男として生まれ,父は青藍舎という塾を開いており、幼いころから学問に興味を持ちながら成長。14歳の時,父に従って江戸の地を踏むと武道にもめざめ、神道無念流の岡田十松に入門しました。19歳の時,イギリスの捕鯨船員12人…

藤田幽谷と水戸学

水戸学は国学と共に近世ナショナリズムの源泉であり、幕末、尊王懐夷思想の根拠になりました。水戸学が生まれたのは、水戸藩の第2代藩主徳川光圀が中国の「史記」を範とする日本史を構想して多くの学者を招聰し、彰考館を創設して編纂事業を始めたことによ…

松陰先生の諸生に示す

「諸生に示す」松陰全集第四巻 357 頁収載(戌午幽室文稿)安政五年六月二十三日(1858)先に書いた「煙管を折るの記」は松下村塾の塾風を知るのに、貴重な資料であったが、この「諸生に示す」は、集団教育に対する松陰の考え方を知るのに好都合な資料である…

宮部鼎蔵宛の書簡

「宮部鼎蔵宛」嘉永六年六月十六日 松陰在江戸・宮部在肥後(前半原漢文)久しく華翰に接せず、渇望日に甚し。五月二十四日江戸に抵り、梁山泊に投ず。即日家兄の書を得、封を開けば則ち貴書あり、喜幸抃躍、急に展べて之れを讀む。未だ數行ならざるに魂を消…

草莽崛起論

北山安世は、松陰が終生、師と仰いだ佐久間象山の甥であり、嘉永六年江戸遊学以来の 友人である。このとき、北山は長崎遊学の帰途、萩に立ち寄った。松陰は北山に自らの 時局観を披瀝し「 独立不羈三千年来の大日本...那波列翁を起してフレーヘードを唱へ …

二十一回猛士

松陰も号でありますが、松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使いました。これは、その由来を書いたものです。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけであります。すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田…

松下村塾記

松陰先生の先見の明が現る一文 【内容】 長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく…

勝海舟の漢詩

多年の蹤跡 埃塵に没す たねんのしょうせき あいじんにぼっす 心情を揣摩して 天眞を思うしんじょうをしまして てんしんをおもう華屋美なりと雖も 是浮榮かおくびなりといえども これふえい 富は泡沫の如く 名は煙の如しとみはほうまつのごとく なはけむりの…

七生説

「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候ヘ」(太平記より) (丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)二十七歳 天の茫々ぼうぼうたる、一理いちりありて存そんし、父子祖孫そそんの綿々めんめんたる、一気ありて属つづく。人の生うま…

留魂録

『留魂録』は松陰が門下生に残した遺書である。松陰は十月二十七日に処刑されたが、これはその前日の二十五日から二十六日夕刻にかけて書き上げられた物です。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」と、大和魂を留めて七生報国すると念じた歌…

吉田松陰先生の名言録

吉田松陰先生はいくつかの「名語録」とでも云うべき、印象的なことばをのこしております。今日は私の好きな「15の語録」を書きだしてみました。松陰先生の学問は「誠」に象徴されるごとく心を打つものが多いです。「志」にちなむことばが印象的です。親に対…

士規七則

成人男子に送りたい、日本男子のあるべきすがた規範です。「士規七則」は安政二年一月、野山獄に投獄されていた松陰先生が従兄弟にあたる玉木彦助の十五歳の元服式に贈った武士の心得七か条を書いたものです。1経書から始まる人間修養のための読書、2皇国…

大和魂の発揮とは

「大和魂の発揮=日本人特有の思考と行動の発現」 「大和魂の発露=日本人特有の思考と行動の表れ」 「大和魂の意味=日本人特有の思考と行動の本意」 初めまして有狂と申します。私は歴史好きで、いろいろな歴史書を読んでおります。特に戦争ものなどを見る…