歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

明治

武士道精神と近代化

武士階級が消滅した明治期においても武士道は存続しました。旧武士階級から士族階層への変遷、また明治期における士族階層の役割・足跡を追いながら、明治日本に影響を与えた思想としての武士道についてかんがえてみましょう。江戸時代に武士の学ぶべき思想…

金子堅太郎と日露戦争

日本政府が日本銀行副総裁高橋是清を外債募集のため欧米に派遣すると同時に、当時の枢密院議長伊藤博文は日本の戦争目的広報のため貴族院議員金子堅太郎を渡米させました。ハーバード大学を卒業し英語にも堪能で米国に知己も多かった金子堅太郎は、対外的に…

不平等条約改正と黄禍論

ペリ-が1853年浦賀沖に来航して、200 年余りに及ぶ長い鎖国に終止符を打ち、欧米諸列強と国交を開始することになりました。1854年の日米和親条約に続いて、1858年に日米修好通商条約を締結した日本は、同じ年にオランダ、ロシア、イギリス、フランス各国と…

日露戦争とユダヤ人

日露戦争における日本の勝利は、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領の仲介とウォール街のユダヤ人金融業者ジェイコブ・ヘンリー・シフの金融面での対日協力なしにはありませんでした。開戦直後から日本政府の特派財務委員として当時の世界の金融セン…

日露戦争と高橋是清

当時の日本は武器や軍艦、燃料に至るまで輸入に頼らざるを得ず、そのためには金本位制が維持され、正貨である金で支払いができることが前提でありました。日本の3倍の国力をもち、ヨーロッパで列強として君臨していた帝政ロシアの南下政策に対して、日本は…

上村彦之丞の武士道と大和魂

1904年 8 月 14 日、第 2 艦隊司令官である上村彦之丞提督(写真)は、蔚山沖でウラジオ艦隊(リューリック、グロモボイ、ロシア)を捕捉し、双方の激しい海戦の末、巡洋艦リューリックを撃沈、ほか 2 隻を大破させました。日本にとって、ウラジオ艦隊は、陸…

乃木希典と連隊旗

西南戦争において政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍とが熊本で戦端を開いたのが1877年[明治10年]2月21日です。その翌日には乃木希典にとって連隊旗を敵に奪われるという事件がおこります。西郷軍が大挙して熊本県内で事を起すという急報に接した熊本城の鎮台司…

乃木希典の武士道

日露戦争における乃木希典の武士道精神と真の大和魂を感じさせるエピソードをご紹介いたします。日露戦争が終わって乃木大将は世界から絶賛されました。乃木大将はその人柄が誠実であること、清廉、質素、勇敢、などが他にくらべ特質しており、同じ長州人で…

日露戦争から大正デモクラシー

日露戦争は史上初の総力戦でありました。日清戦争をはるかに超える規模で行われ、軍事面だけでなく、支援する国内体制の整備が必要とされたのです。地方の各種団体はあらゆる面で国策に動員されることとなり、臨時軍事費はその約83%が公債、借入金でまかな…

旅順港閉塞作戦と広瀬武夫

開戦当初、日露戦争は大陸に増強されているロシア軍と戦うためには、まず、日本陸軍を大陸に送り込むための海路を確保することと、これら陸軍への補給支援のための海上交通路を確保することが、まずは最優先された。このため、東郷艦隊はロシアの極東艦隊(…

七生報国と広瀬武夫

湊川の戦いで正成軍は、1336年5月僅かな手勢を率いて蓮池で16回をも攻撃を行い、10倍以上の軍勢を須磨まで押し戻しました。そして尊氏の本陣にも攻め込んだのです。しかし、尊氏軍の前にあえなく全滅し、一族郎党とともに自刃して果てるが、このとき…

幕末志士と湊川神社

楠木正成公は延元元年(1336)5月25日 、正成公は「湊川の合戦」で足利軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、多勢に無勢で味方はわずか73人に減ってしまいます。もはやこれまでと覚悟した正成はこの地にあった民家に入り、「七生報国」を誓つて弟の正季と…

薩摩示現流 VS 警視抜刀隊

西南戦争の田原坂の攻防戦において、西郷軍による示現流の使い手斬り込み攻撃により、武士以外で構成された政府軍では恐怖心が蔓延し死傷者が続出しました。士族中心だった西郷軍との白兵戦に対応が難しかったと言わわれている。こうした状況下による事態を…

西南戦争の旧会津藩士

西南戦争ではエピソードに事欠きません。 挙兵した薩摩軍に対して戊辰戦争で賊軍とされた旧会津藩士など旧幕府出身者が多く志願したといわれることが多いです。その中の代表的な方のご紹介です。 【佐川官兵衛】当時は麴町警察署長。豊後口警視隊副指揮長と…

清正公に見る西南の役

田原坂は言わずとしれた西南戦争の激戦地様々な大和魂を揺さぶるエピソードがございます。 話は、関ヶ原の合戦にまで遡ります。関ヶ原の合戦で勝ったのは、ご存じの通り東軍の徳川家康。このとき、西軍に薩摩の島津軍がいたこともご存じの通りです。 島津軍…

西南戦争と自由民権

西南戦争最大の激戦地は田原坂ですが、国指定史跡が一番多く残されているのは実は玉東町であり、それ以外にも玉名市、山鹿市、南関町など熊本県北地域の各地に西南戦争の爪跡が残されています。南関町には官軍側の総督有栖川宮熾仁親王の本営が置かれた正勝…

新渡戸稲造 「武士道」

欧米に紹介された時、日本人の気質、日本人の価値観、日本人の団結力、日本人の優秀性を一躍知らしめる上で大成果を上げた著書が新渡戸稲造の「武士道」です。以下に新渡戸稲造の著書「武士道」について要約掲載します。 「武士道はその表徴たる桜花と同じく…