読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

池田屋事件と土佐藩の北添佶摩

北添佶摩(キタゾエキツマ)は、商家の出身で19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となります。開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学びます。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共…

桂小五郎(木戸孝允)と池田屋事件

池田屋事件では池田屋へ一番早く行ったが、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行っており、小五郎は運良く難を逃れたと言われております。新選組が池田屋を襲撃したのは、対馬藩邸に行っている間に起こったのです。池田屋事件の発端となった…

熊本の尊皇攘夷派、宮部鼎蔵と池田屋事件

宮部鼎蔵は1820年4月、肥後国益城郡田代村で、春吾の長男として生まれました。代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいます。家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就き、山鹿流軍学を学んだのです。その後、兵学師範で…

松陰門下の四天王、吉田稔麿と池田屋事件

吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀とゆわれたほどの人物です。吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれます。松陰先生主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き…

古高俊太郎と池田屋事件

池田屋事件とは、幕末の元治元年 6 月 5 日(1864 年 7 月 8 日)に、京都三条木屋町の旅館・池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件です。池田屋騒動とも言われております。幕末の…

勤王商人・古高俊太郎と福寿院

滋賀の福寿院には、幕末の志士・古高俊太郎の大きな顕彰碑がございます。池田屋事件(1864)にかかわったことで有名な古高俊太郎は、福寿院の住所でもわかるとおり(滋賀県守山市古高町158)古くから地元の名族名士の古高一族の出身で、激動する時代の中、尊皇…

勤王商人、白石正一郎

下関竹崎で荷受問屋を営み、清末藩御用達を勤めた白石正一郎です。正一郎は、近世に港湾都市として栄えた下関において、大きな経済効果を生む諸国の廻船交易に参入できない新興商人でした。そのため、藩内外の交易相手に機敏に対応し、商利を求めて積極的に…

吉田松陰先生の三余説

松陰先生が下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても兄の梅太郎の協力があってこそのことであります。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛…

ペリリュー島の戦いと大和魂

この小さな島でくりひろげられた戦闘は、これまでの島にまさる壮絶さだったのです。オレンジ・ビーチ、この海岸は1944年9月15日に始まった米軍のペリリュー島への最初の上陸地点でした。米軍は、既に制空制海権を抑えており、その上陸前に相当の爆撃をこの島…

陽明学と吉田松陰先生

松蔭先生は軍学、兵学ばかりでなく、国学、儒学、史学も学んでいますが、特に儒学の一種の陽明学を深く学んでいたのです。この陽明学にある教えに知行合一がありますが、それは実践重視主義を重視し、説明すると「思想は行動が共なってこそ完成する。言行一…

勤王僧、月性とは

月性は、文化14年、妙円寺に生まれました。15歳のとき天保2年から4年余り、福岡県豊前市の恒遠醒窓の元で詩文を学びさらに漢詩文・仏教を学び、優れた詩人としての基礎も作りました。嘉永元年には、清狂草堂を開塾し、遠近より入塾を希望する若者が集ま…

吉田松陰先生と勤王僧、月性

松陰先生は月性より13歳若く、松陰が幼子のころから月性は、杉家と親交を交え、特に松陰の兄梅太郎とはたいへん仲の良い間柄でした。月性と松陰先生は、詩文の批評を交換し時事を論じるなどの書簡の往復を始めたことから関係が深まります。その始まりは松…

吉田松陰先生の最後の振る舞い

1859年(安政6年)5月25日早朝、松陰先生は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かいました。松陰先生が江戸に送られた罪状は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰先生に会った事を話したことが理由でした。江戸の評定所が松陰先生に問いただしたの…

葉隠と武士道

享保元年1716年に完成した葉隠は、鍋島武士団を形成する精神的要素の一つとして影響力を持ち、佐賀藩が貫いたこの葉隠精神は、朱子学を中心とする藩校教育と並立する存在でありました。しかし、江戸後期において、葉隠の中に表れる武士精神が、天明元年1781…

本居宣長の「もののあはれ」と神風特別攻撃隊

本桜と本居宣長出生が桜の名所・吉野にある水分(みくまり)神社と関係している宣長は、24 歳の頃に桜を好み始めます。国学を研究し、もののあわれについて持論を展開していく中で日本人の精神に迫った宣長は、自身の還暦を記念した自画自賛像に「敷島の」の…

大和「こころ」と本居宣長

マッシュー・アーノルドが定義したように宗教が「情念によってひきだされた道徳」にすぎないものであるとすれば、武士道はまさしく、宗教の列に加えられるべき資格を有する道徳体系になります。 本居宣長は「しきしまのやまと心を人とはば、朝日ににほふ山ざ…

会津藩家訓15カ条

第1条/大君の儀は、一心に忠勤を励むべきで、他藩の例をもつて満足してはならない。もし、二心を抱けばわが子孫ではないから、家臣は決してこれに従つてはならない。 第2条/武備を怠つてはならない。士を選ぶを本とすべきで上下の分を乱してはならない。 第3…

戊辰戦争とは

戊辰戦争の前哨戦である鳥羽伏見の戦いは、慶応4年、1868年に鳥羽の小枝橋付近で戦端が開かれました。旧幕府軍約15,000名と、薩摩藩、長州藩、土佐藩が主力の約5,000名が激しい戦闘を繰り広げました。旧幕府軍の主力は会津藩、桑名藩、新選組、京都見廻…

武士道精神と近代化

武士階級が消滅した明治期においても武士道は存続しました。旧武士階級から士族階層への変遷、また明治期における士族階層の役割・足跡を追いながら、明治日本に影響を与えた思想としての武士道についてかんがえてみましょう。江戸時代に武士の学ぶべき思想…

金子堅太郎と日露戦争

日本政府が日本銀行副総裁高橋是清を外債募集のため欧米に派遣すると同時に、当時の枢密院議長伊藤博文は日本の戦争目的広報のため貴族院議員金子堅太郎を渡米させました。ハーバード大学を卒業し英語にも堪能で米国に知己も多かった金子堅太郎は、対外的に…

不平等条約改正と黄禍論

ペリ-が1853年浦賀沖に来航して、200 年余りに及ぶ長い鎖国に終止符を打ち、欧米諸列強と国交を開始することになりました。1854年の日米和親条約に続いて、1858年に日米修好通商条約を締結した日本は、同じ年にオランダ、ロシア、イギリス、フランス各国と…

日露戦争とユダヤ人

日露戦争における日本の勝利は、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領の仲介とウォール街のユダヤ人金融業者ジェイコブ・ヘンリー・シフの金融面での対日協力なしにはありませんでした。開戦直後から日本政府の特派財務委員として当時の世界の金融セン…

日露戦争と高橋是清

当時の日本は武器や軍艦、燃料に至るまで輸入に頼らざるを得ず、そのためには金本位制が維持され、正貨である金で支払いができることが前提でありました。日本の3倍の国力をもち、ヨーロッパで列強として君臨していた帝政ロシアの南下政策に対して、日本は…

上村彦之丞の武士道と大和魂

1904年 8 月 14 日、第 2 艦隊司令官である上村彦之丞提督(写真)は、蔚山沖でウラジオ艦隊(リューリック、グロモボイ、ロシア)を捕捉し、双方の激しい海戦の末、巡洋艦リューリックを撃沈、ほか 2 隻を大破させました。日本にとって、ウラジオ艦隊は、陸…

乃木希典と連隊旗

西南戦争において政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍とが熊本で戦端を開いたのが1877年[明治10年]2月21日です。その翌日には乃木希典にとって連隊旗を敵に奪われるという事件がおこります。西郷軍が大挙して熊本県内で事を起すという急報に接した熊本城の鎮台司…

乃木希典の武士道

日露戦争における乃木希典の武士道精神と真の大和魂を感じさせるエピソードをご紹介いたします。日露戦争が終わって乃木大将は世界から絶賛されました。乃木大将はその人柄が誠実であること、清廉、質素、勇敢、などが他にくらべ特質しており、同じ長州人で…

日露戦争から大正デモクラシー

日露戦争は史上初の総力戦でありました。日清戦争をはるかに超える規模で行われ、軍事面だけでなく、支援する国内体制の整備が必要とされたのです。地方の各種団体はあらゆる面で国策に動員されることとなり、臨時軍事費はその約83%が公債、借入金でまかな…

旅順港閉塞作戦と広瀬武夫

開戦当初、日露戦争は大陸に増強されているロシア軍と戦うためには、まず、日本陸軍を大陸に送り込むための海路を確保することと、これら陸軍への補給支援のための海上交通路を確保することが、まずは最優先された。このため、東郷艦隊はロシアの極東艦隊(…

七生報国と広瀬武夫

湊川の戦いで正成軍は、1336年5月僅かな手勢を率いて蓮池で16回をも攻撃を行い、10倍以上の軍勢を須磨まで押し戻しました。そして尊氏の本陣にも攻め込んだのです。しかし、尊氏軍の前にあえなく全滅し、一族郎党とともに自刃して果てるが、このとき…

幕末志士と湊川神社

楠木正成公は延元元年(1336)5月25日 、正成公は「湊川の合戦」で足利軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、多勢に無勢で味方はわずか73人に減ってしまいます。もはやこれまでと覚悟した正成はこの地にあった民家に入り、「七生報国」を誓つて弟の正季と…

楠木正行とゆかりの地

楠木正行は、南北朝時代の武将で、楠木正成の嫡男です。「大楠公」と正成に対して「小楠公」と呼ばれます。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦いました。 【正行ゆかりの地】四條畷の合戦で討ち死にし、小楠公墓所にねむる楠正行ゆかりの地を訪れ、正行の生きざま…

非理法権天と楠木正成

江戸時代の『貞丈家訓』(伊勢貞丈)という文献には、「非理法権天」の言葉の解釈として、「無理は道理に劣位し、道理は法式に劣位し、法式は権威に劣位し、権威は天道に劣位する」と記述されています。つまり、「非」とは、道理の通らぬことを指し「理」と…

楠木正成と大和魂

歴史の中で楠木正成は大和魂を語るうえで代表的な武士となります。1294年河内の千早赤阪村にある水分で生誕したとゆわれております。正成が生まれたこと、140年あまり続いた鎌倉幕府は衰え、秩序が乱れていました。その中で、政治を武士から天皇に戻す気運が…

徳川斉昭と偕楽園

徳川斉昭と偕楽園 幕末の水戸藩主・勤王家。烈公とも呼ばれており、徹底した尊王でありました。まさに大和魂を体現し、その思想を水戸から広める重要な人物だとおもいます。徳川斉昭は改革派の人材を登用し、自分の擁立に功があった下士層から藤田東湖、武田…

藤田小四郎と天狗党の乱

江戸末期の水戸藩士。東湖の四男。名は信、字は子立、小四郎は通称です。幼少より父東湖に水戸学を学び、詩文にも長じました。文久3年には長州藩の桂小五郎らと東西呼応しての挙兵をはかったが果たせませんでした。そこで元治元年3月、同志を募り、筑波山に…

武田耕雲斎と天狗党の乱

幕末尊攘派の水戸藩士の跡部正続の長子として生まれ、本家を継いだのち跡部の旧姓武田を名乗ります。名は正生(まさなり)で耕雲斎は号となります。9代藩主徳川斉昭の藩政改革の尽力した改革派の重臣です。元治元年3月、藤田小四郎らが筑波山の挙兵したとき…

天狗党の乱

幕末、外国からの圧力が強まる中、「攘夷」の実行を幕府に迫るために決起した者たちがいました。 水戸藩浪人たちを主とする一団で藤田小四郎(藤田東湖の四男)を中心に62人で決起いたします。武田耕雲斎なども合流し首領として指揮を執ります。元治元年(186…

吉田松陰先生と水戸学

幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学発祥の地の水戸で弘道館初代教授頭取を務めた会沢正志斎が書いた新論は、吉田松陰にも大きな影響を与えました。22歳の松陰先生が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月から翌年1月にかけてであります。…

尊王攘夷運動

国家存在の根拠としての尊王思想と侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う」の意味となり、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄を打ち払うという意味です。覇者が用いた標語を日本の国学者…

大日本史

大日本史とは水戸藩2代藩主・徳川光圀の命により編纂された歴史書となります。1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いたのと多額の費用を要した日本の歴史の上で類まれだ大事業だったの…

桜田門外の変

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」であります。 この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習し…

歴史とは何か

「歴史とは現在と過去との対話である」 大和魂を探るうえで歴史のとらえ方について考えて見たいと思います。 上の言葉を残したドワード・ハレット・カー(1892~1982)はこのように考察しております。それは、歴史というものは「特定の主観」を排した客観的…

大和魂とは

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではな…

弘道館

水戸学の思想と教育、天保三年、九代水戸藩主・徳川斉昭のすすめた天保の改革のなかでも目玉の事業であった弘道館が誕生し学校」の出現でありました。明倫堂が一万七八〇〇坪、幕府の学校・昌平贅にしても一万一六〇〇坪でしかない。「三千載(年)未だで嘗…

会沢正志斎と新論

会沢正志斎は日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者 藤田東湖と並び水戸学の代表的思想家で、父親は会沢恭敬、母は根本重政の娘となります。藤田幽谷の青藍舎へ入門いたします。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を書きました。…

藤田東湖と水戸学

水戸藩の学者藤田幽谷の二男として生まれ,父は青藍舎という塾を開いており、幼いころから学問に興味を持ちながら成長。14歳の時,父に従って江戸の地を踏むと武道にもめざめ、神道無念流の岡田十松に入門しました。19歳の時,イギリスの捕鯨船員12人…

藤田幽谷と水戸学

水戸学は国学と共に近世ナショナリズムの源泉であり、幕末、尊王懐夷思想の根拠になりました。水戸学が生まれたのは、水戸藩の第2代藩主徳川光圀が中国の「史記」を範とする日本史を構想して多くの学者を招聰し、彰考館を創設して編纂事業を始めたことによ…

水戸学

水戸学とは前期水戸学、後期水戸学と分かれます。 前期は光圀公をはじめとする大日本史を編纂した儒学者たちが中心となり、後期水戸学は徳川斉彬公や藤田幽谷をはじめとする門人達でありました。そして烈公(斉彬公)と共に、その道を切り拓き、歩んだのは、…

辻政信とガダルカナルの戦い

ガダルカナル島の戦いでも実情を無視した攻撃を強行した作戦参謀。 辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた…

ガダルカナルの戦いの総括

11月中旬頃までガダルカナル島の争奪をめぐり日本軍とアメリカ軍は必死の戦いを続けた。結局、アメリカ軍は、マタニカウ川西岸高地まで橋頭堡を拡大し、そしてこの橋頭堡に武器・弾薬、兵站物資等を継続して補給し、常に日本軍に勝る戦力を維持し続けた。日…