歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

桜田門外の変

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」であります。 この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習し…

歴史とは何か

「歴史とは現在と過去との対話である」 大和魂を探るうえで歴史のとらえ方について考えて見たいと思います。 上の言葉を残したドワード・ハレット・カー(1892~1982)はこのように考察しております。それは、歴史というものは「特定の主観」を排した客観的…

大和魂とは

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではな…

弘道館

水戸学の思想と教育、天保三年、九代水戸藩主・徳川斉昭のすすめた天保の改革のなかでも目玉の事業であった弘道館が誕生し学校」の出現でありました。明倫堂が一万七八〇〇坪、幕府の学校・昌平贅にしても一万一六〇〇坪でしかない。「三千載(年)未だで嘗…

会沢正志斎と新論

会沢正志斎は日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者 藤田東湖と並び水戸学の代表的思想家で、父親は会沢恭敬、母は根本重政の娘となります。藤田幽谷の青藍舎へ入門いたします。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を書きました。…

藤田東湖と水戸学

水戸藩の学者藤田幽谷の二男として生まれ,父は青藍舎という塾を開いており、幼いころから学問に興味を持ちながら成長。14歳の時,父に従って江戸の地を踏むと武道にもめざめ、神道無念流の岡田十松に入門しました。19歳の時,イギリスの捕鯨船員12人…

藤田幽谷と水戸学

水戸学は国学と共に近世ナショナリズムの源泉であり、幕末、尊王懐夷思想の根拠になりました。水戸学が生まれたのは、水戸藩の第2代藩主徳川光圀が中国の「史記」を範とする日本史を構想して多くの学者を招聰し、彰考館を創設して編纂事業を始めたことによ…

水戸学

水戸学とは前期水戸学、後期水戸学と分かれます。 前期は光圀公をはじめとする大日本史を編纂した儒学者たちが中心となり、後期水戸学は徳川斉彬公や藤田幽谷をはじめとする門人達でありました。そして烈公(斉彬公)と共に、その道を切り拓き、歩んだのは、…

辻政信とガダルカナルの戦い

ガダルカナル島の戦いでも実情を無視した攻撃を強行した作戦参謀。 辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた…

ガダルカナルの戦いの総括

11月中旬頃までガダルカナル島の争奪をめぐり日本軍とアメリカ軍は必死の戦いを続けた。結局、アメリカ軍は、マタニカウ川西岸高地まで橋頭堡を拡大し、そしてこの橋頭堡に武器・弾薬、兵站物資等を継続して補給し、常に日本軍に勝る戦力を維持し続けた。日…

第2師団

10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第2師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネック…

川口支隊

第 17 軍司令官は、8月19 日、歩兵第 35 旅団長川口清健少将に、自今、川口支隊(第35 旅団司令部及び歩兵第 124 聯隊基幹)となり、海軍と協同して速やかにガダルカナル島を確保することを命令した。この頃まだ大本営は、ガダルカナル島陸上兵力は 2 ~ 300…

一木支隊

百武晴吉陸軍中将指揮の第17軍は、より重要な目標であるポートモレスビーの攻撃前に、ガダルカナルとツラギを奪回するように命じられたのである。第17軍は5万人の編成だったが命令がでたとき、軍の兵力はひろく分散していた。第2師団はジャワとフィリピンに…

ガダルカナルの戦い

ガダルカナル島は、アメリカ軍にとってはラバウル攻略の足掛かりとして飛行場を確保する ために、日本軍にとっては、ポートモレスビー攻略と相俟って珊瑚海海域における有利な戦 略態勢を確立するために重要な島であり、どちらがこの島を確保しているかがじ…

敦盛

平清盛の甥で、兄に能『経政』の平経正がいます。一ノ谷合戦で、熊谷直実に討たれます。 時に16歳(17歳とも)。五位で官職はなかったので「無官の大夫」と呼ばれていました。おそらく元服直後に都落ちすることになったかのでしょう。合戦以前の敦盛を語る記…

「アーノルド・J・トインビー」大東亜戦争の日本の評価

「第2次世界大戦によって、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大なる歴史を残したと言わざるを得ない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上に残した業績…

日本人の起源

日本人の両親のもとに生まれた、あるいは日本で生まれ育った人は、ごく自然に自分を「日本人」だと考えます。しかし、歴史を遡っていくと、私たちはいくつかの異なった民族に分かれます。そしてそれぞれの民族集団は、何万年もの間に、北から南から、そして…

マッカーサーの回顧

日本には石油がない、錫がない、綿がない、ゴムもない。その供給を全て絶たれたら、どんな小国でも戦争を決断する。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。 それ故に、日本が第…

松陰先生の諸生に示す

「諸生に示す」松陰全集第四巻 357 頁収載(戌午幽室文稿)安政五年六月二十三日(1858)先に書いた「煙管を折るの記」は松下村塾の塾風を知るのに、貴重な資料であったが、この「諸生に示す」は、集団教育に対する松陰の考え方を知るのに好都合な資料である…

宮部鼎蔵宛の書簡

「宮部鼎蔵宛」嘉永六年六月十六日 松陰在江戸・宮部在肥後(前半原漢文)久しく華翰に接せず、渇望日に甚し。五月二十四日江戸に抵り、梁山泊に投ず。即日家兄の書を得、封を開けば則ち貴書あり、喜幸抃躍、急に展べて之れを讀む。未だ數行ならざるに魂を消…

幕末の偉人たちは何が思想の源泉か?

幕末の偉人たちのベースには武士道、陽明学、孟子、孔子などの思想がベースにあります。その中で言志四録は特に愛読されたようです。大和魂の源泉はそのあたりの思想に根付いているの思われます。いくつか教えをご紹介いたします。 ・教え諭すには3つの段階…

草莽崛起論

北山安世は、松陰が終生、師と仰いだ佐久間象山の甥であり、嘉永六年江戸遊学以来の 友人である。このとき、北山は長崎遊学の帰途、萩に立ち寄った。松陰は北山に自らの 時局観を披瀝し「 独立不羈三千年来の大日本...那波列翁を起してフレーヘードを唱へ …

二十一回猛士

松陰も号でありますが、松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使いました。これは、その由来を書いたものです。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけであります。すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田…

松下村塾記

松陰先生の先見の明が現る一文 【内容】 長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく…

真岡郵便電信局事件での大和魂

真岡郵便電信局事件とは1945年8月20日、樺太真岡郡真岡町に終戦前のどさくさに紛れてソ連軍の日本領への侵略が行われている中での事件でソ連軍が艦砲射撃を行って侵攻した際、真岡郵便局電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)の女性12名のう…

樋口季一郎とユダヤ人

樋口季一郎さんは1918年、陸軍大学校を卒業。当時のエリートでした。各国の情報収集にあたる情報武官としてヨーロッパやロシアに赴任し、順調に出世街道を歩んでいました。そして日中戦争が勃発した1937年、満州の関東軍で諜報活動のトップ特務機関…

ガダルカナルの戦い

ガダルカナル島は、アメリカ軍にとってはラバウル攻略の足掛かりとして飛行場を確保する ために、日本軍にとっては、ポートモレスビー攻略と相俟って珊瑚海海域における有利な戦 略態勢を確立するために重要な島であり、どちらがこの島を確保しているかがじ…

知行合一

《知行合一》知識と行為は一体であるということ。本当の知は実践を伴わなければならないということ。王陽明が唱えた陽明学の学説。朱熹しゅきの先知後行説に対したもの。 明代中期の儒教思想家、王守仁(陽明・1472-1528)による「知行合一・」説 の提唱は…

武士道の10則

道徳(高徳・公徳心) 十則 一. 仁 (慈悲:惻隠の情=可哀相に思う情けの心・慈悲慈愛) 二. 義 (無私:損得勘定のない判断、労わりの心、公を重んじ無私に生きる) 三. 礼 (礼儀:秩序を重んじる、方便、悟られないように気配りをする) 四. 知 (智…

勝海舟の漢詩

多年の蹤跡 埃塵に没す たねんのしょうせき あいじんにぼっす 心情を揣摩して 天眞を思うしんじょうをしまして てんしんをおもう華屋美なりと雖も 是浮榮かおくびなりといえども これふえい 富は泡沫の如く 名は煙の如しとみはほうまつのごとく なはけむりの…