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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

七生説

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「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候ヘ」(太平記より)

 

(丙辰幽室文稿)安政三年四月十五日(一八五六)二十七歳

天の茫々ぼうぼうたる、一理いちりありて存そんし、父子祖孫そそんの綿々めんめんたる、一気ありて属つづく。人の生うまるるや、斯この理りを資とりて以て心と為し、斯の気を稟うけて以て体たいと為す。体は私わたしなり、心は公こうなり。私を役えきして公に殉したがふ者を大人だいじんと為し、公を役えきして私わたしに殉したがふ者を小人しょうじんと為す。故に小人は体滅たいめっし気竭きつくるときは、則ち腐爛ふらん潰敗かいはいして復また収おさむべからず。君子は心、理と通ず、体たい滅しめっ気竭きつくるとも、而しかも理は独り古今ここんに亙わたり天穣てんじょうを窮きわめ、未だ嘗かつて暫しばらくも歇やまざるなり。
余聞く、「贈ぞう正しょう三位さんみ楠なん公こうの死するや、其の弟おとうと正季まさすえを顧かえりみて曰く、『死して何をか為す』と。曰く、『願はくは七たび人間に生れて、以て国賊こくぞくを滅ほろぼさん』と。公こう欣然きんぜんとして曰く、『先まづ吾が心を獲えたり』とて耦ぐう刺しして死せり」と。噫ああ、是れ深く理気りきの際に見ることあるか。是の時に当り、正行まさつら.正朝まさともの諸子しょしは則ち理気並び属つづく者なり。新田にった.菊池きくちの諸族しょぞくは気離きはなれて理通ずる者なり。是れに由りて之れを言はば、楠なん公こう兄弟きょうだいは徒ただに七生しちせいのみならず、初めより未いまだ嘗かつて死せざるなり。是れより其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起こうきせざる者なければ、則ち楠公の後、復また楠公を生ずるもの、固もとより計はかり数かぞふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや。余嘗かつて東に遊び三たび湊川みなとがわを経へ、楠公の墓を拝し、涕涙ているい禁きんぜず。其の碑陰ひいんに、明の徴士ちょうし朱生しゅせいの文を勒ろくするを観みるに及んで、則ち亦涙を下くだす。噫ああ、余の楠公に於ける、骨肉父子の恩ある

 

「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候ヘ」(太平記より)

ご存知、楠木正季公の最後の言葉です。
建武三年(延元元年)(西紀1336年)、北朝の足利軍との播磨国湊川の戦いに敗れ、兄の楠木正成公と共に自害。
死んでも南朝の為に忠誠を尽くすというこの「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」の言葉は、後世の人に深い感銘と影響を与えます。
松陰先生は「七生滅賊」を謳い、明治以降、特に戦時中には「七生報国」の四字が盛んに使われました。
楠木正成公像 脇は佩刀の小竜景光か湊川(現兵庫県神戸市)には「嗚呼忠臣楠子之墓」と記された楠木正成公の墓があります。
朱舜水先生(江戸初期に来日した儒者)も、海外から来た人ながらも楠木公の墓に涙し、碑文を捧げています。松陰先生も湊川を訪れ、楠木公の墓前に涙し、さらに舜水先生の碑文を見てまた涙しました。正季公が誓った「七生」は、まさに後世の人に脈々と継がれ、幕末には見事に朝敵を滅ぼしました。松陰先生の「七生説」は漢文体で成り立っています。正氣歌の記事と同じく、漢文、訓読文、現代語訳の順番に載せます。

主に松本二郎氏の著書「解釈 吉田松陰の文と詩」から抜粋させて頂いてますが、入力端末の都合上もあり言葉を略したり、また、私的な解釈も含まれています。
現代語訳を読めば全体像が分かります。それから訓読文、興味があれば原文に目を通されるといいかと思います。

 

(現代語訳)
天の広大さには理というものがあり自然の中に存在している。
子孫が続く中には気というものがあり代々連なっている。
人は生まれたらこの理が備わって心となる。
この気を授かって体となる。
体は私である。
心は公である。
私(体)を犠牲にして公(心)の為に死ぬ者を君子とする。
公(心)を犠牲にして私(体)の為に死ぬ者を小人とする。
だから、小人は死ねば腐敗して何も残らない。
君子は体は滅んでも心は理となって生き続ける。
私の聞く所によれば、かの楠木正成公が自決するに際し、弟の正季公をみて「死んでどうするか。」と問う。
正季公は「七たびまでも蘇り、朝敵を打ち滅ぼさなければならないとだけ思っています。」と答える。
正成公は自分と同意なのを喜んで刺し違えて自決された。
ああこれは、気(体)は滅びても理(心)は生き続けるという理論に至ったのだろう。
正成公の子である正行、一族の和田正朝たちは血族なので気(体)も理(心)も同じ者たちである。
新田義貞の一族や、肥後國の菊池一族は血筋は違うので気(体)は続いていないが、南朝の忠臣という理(心)は同じ者たちである。
したがって、楠木公は七生と言わず、彼らの理(心)を通じて生き続けている。
そして、その後も忠義心ある者はみな楠公の生き様を見て奮い立たない者はいない。
だから、楠公亡き後も志を継ぐ者は数限りなく現れ、楠公が蘇るのは七回だけにとどまらない。
私はかつて東国へ行き、三度に渡り湊川に楠公の墓前を拝したが、涙が止まらなかった。
また、そこにある朱舜水が楠公へ奉じた碑文を見て再び涙した。
ああ私は楠公と血の繋がりはない。
親しい間柄であったわけでもない。
なぜ涙せずにらいられないのか自分でも分からない。
朱舜水に至っては、我が国の人ではないのに楠公の死に涙している。
そのような朱舜水に対して、私も涙してしまう。
さらに分からぬことだ。
後になって、朱子学の理氣説なるものを聞き、その訳を知ることを得た。
楠公も朱舜水も私もみな理を備えて心を持っている。
だから、氣(体)の繋がりはなくても理(心)は通じている。
これが涙の止まらぬ所以である。
私には彼らと同じ心があり、忠孝の志を立てて国威を張り、外敵を滅ぼすのを慎むことなく自分の使命としよう。
過去二度の罪を得て不忠不孝の身となった。
しかし、楠公らと心が通じている。
その心がどうして体のように腐敗していまうことがあろうか。
必ずや後世の人に私の心を継がせてみせよう。
それが七たびに及んだならば、それは叶ったと言える。
ああ七生の理気は、確かにいま私の中にある。
七生説を作る。