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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

清正公に見る西南の役

田原坂は言わずとしれた西南戦争の激戦地
様々な大和魂を揺さぶるエピソードがございます。

話は、関ヶ原の合戦にまで遡ります。
関ヶ原の合戦で勝ったのは、ご存じの通り東軍の徳川家康
このとき、西軍に薩摩の島津軍がいたこともご存じの通りです。

島津軍は、関ヶ原の敗戦後、劇的に薩摩まで逃げ帰っており、関ヶ原後、家康が恐れていた相手は、毛利と島津だったと言われてます。
敗戦後、毛利は広島の本拠地から、防長二州の田舎に追いやられました。
どういういきさつかは分からないが、島津は元の薩摩大隅の二州を安堵。
だが、家康はなかなか頭を使う男で、島津を薩摩に押さえておくために 熊本に虎退治で有名な加藤清正を置いています。
熊本に入った後、清正は、熊本の戦略的強化に乗り出しました。
宮本武蔵を招いたことなどでも有名な清正は、 熊本城はおろか、熊本の街に入る街道までも強化してます。
田原坂は熊本城の北16kmに位置する。田原坂より北は筑後平野の玉名、田原坂より南は植木を経て熊本城まで続いてます。
田原坂を越える峠道は、非常に狭く、曲がりくねった道が続きます。
つまり、清正は戦略上の理由により筑後方向へは 田原坂しか道を造っていなかったのです。

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ようやく本題の西南の役です。天下無敵の薩軍はまず熊本城を包囲しました。
薩軍は、「このいらさぼう(竹)で一撃でごわす!!」という気分で、 あっさりと熊本城が落城(または降伏)すると考えていました。
ところが、熊本鎮台司令長官谷干城率いる熊本城は落ちません


だが、熊本を包囲した薩軍は当然のごとく、官軍を迎え撃つために田原坂を固めます。そして、この田原坂が激戦地、田原坂を守る薩軍に熊本奪回のために徹底的に攻撃する官軍。

 

「雨は降る降る 人馬は濡れる
 越すに越されぬ 田原坂

 

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これは、田原坂の戦いをうたったある有名な歌だが、 ここで間違えてはならないのは、「越すに越されぬ」のは守備方の薩軍ではなく 攻撃方の官軍のほうなのです。
薩軍が熊本すらも落とせなかったという意味で歌われたりもするこの歌だが、 田原坂では、薩軍は守りを固めていました。
この田原坂の40日間の激闘の中で3,660名(田原坂の戦い、植木向坂の戦いを含む)の命が失われていったのです。

官軍は結局、田原坂を攻略できず、別経路から熊本平野に進んだため、 薩軍は、熊本城の攻囲をとき、退却していきました。

薩軍は清正に負けた」というのは、このことです。

この田原坂の戦いは、近代戦を含めても歴史上まれにみる局地的大激戦地です。
両軍合わせて1日30万発以上の銃弾がわずか300mの間で飛び交っていました。
計算すると、1秒間でも3発。 常に撃ってるわけではないから、想像できないような状況です。
この数字の恐ろしさは、田原坂から発掘されるいわゆる「かちあい弾」の多さに見られます。
「かちあい弾」とは、銃弾どうしが空中で衝突することによって 二つの銃弾がくっついたような弾です。
この田原坂の資料館でも、多数の「かちあい弾」を見ることが出来きます。

 

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