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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

樋口季一郎と北方軍・第5方面軍

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大東亜戦争の末期1945年8月アメリカ軍による「広島」「長崎」への2発の原爆投下後、日ソ不可侵条約を破ってのソ連満州樺太侵攻。
日本の指導層はなすすべも無くポツダム宣言の受諾を受け入れ 茫然自失状態でありました。
1945年8月17日 日本がポツダム宣言を受諾した以降にソ連軍が北海道占領を狙い兵力8000人で占守島を侵攻。
占守島守備隊は8月15日の終戦を過ぎて武器破壊を進めていたが突如のソ連軍上陸に対して敢然と立ち向かいました。

樋口季一郎ソ連軍に対し、自己の考えつまり「日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏したが
それは米、英、中国、豪らのの連合国に対してであって日ソ不可侵条約を一方手的に破棄し対日戦争を始めたたソ連とは区別が必要と判断し、
ソ連の勝手な対日侵略戦争に対しては自衛戦争も辞さず。

樋口の指示通り現地守備隊は上陸したソ連軍に対し戦車連隊まで投入し壮絶な反撃を行いソ連軍を海岸まで押し戻し戦いを膠着状態となる。
その後、日本政府の弱腰な対応でソ連も連合軍扱いとなり占守島守備隊も8月21日停戦に追い込まれました。
つまり占守守備隊は負けてもいないのに8月23日ソ連軍に武装解除された。しかし日本軍守備隊の勇戦で日本側約600名の死傷者に対し
ソ連側死傷者3000名以上を出した事によるソ連軍の厭戦気分を増加させました。
(尚、この間占守島にいた400名以上の日本人女子は小船や漁船にのり、北海道に戻る事が可能になる)
占守島での足止め7日間の間に米軍の先遣隊が北海道にも到着した事からソ連軍の北海道東部占領作戦は頓挫し千島列島までの占領に終わった。
こいゆう樋口はじめ先人の方々の努力、勇気、犠牲の上で現在の日本本土は守られたのだ。
この後、樋口に激怒したソ連は樋口を戦犯扱いし死刑にしようと画策するが以前、樋口に助けられたユダヤ人が多数アメリカに在住しており彼らが樋口の助命に
大活躍し結局ユダヤ人の力はアメリカを動かしマッカーサー司令部にも伝わり樋口は戦犯にはならなかったのであります。

樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日 - 1970年10月11日)
兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官
兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(諸説あり9人とも言われている)の長男として出生。
奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。
三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。
大阪陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(21期)に進み優秀な成績で卒業、陸軍大学校(30期)を経て、高級軍人となってからは主に満州、ロシア方面部署を転々と勤務駐在武官としてポーランドにも赴任している。
歩兵第41連隊連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭に遺留され、ハルビンに赴任する。