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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

松下村塾記

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松陰先生の先見の明が現る一文

【内容】

長門の国は僻地であり、山陽の西端に位置している。そこに置く萩城の東郊にわが松本村はある。人口約一千、士農工商各階級の者が生活している。萩城下は既に一つの都会をなしているが、そこからは秀れた人物が久しく顕われていない。しかし、萩城もこのままであるはずがなく、将来大いに顕現するとすれば、それは東の郊外たる松本村から始まるであろう。
私は去年獄を出て、この村の自宅に謹慎していたが、父や兄、また叔父などのすすめにより、一族これに参集して学問の講究に努め、松本村を奮発震動させる中核的な役割を果たそうとしているのである。
叔父玉木文之進の起こした家塾は『松下村塾』の扁額を掲げた。外叔久保五郎左衛門もそれを継いで、村名に因むこの称を用い、村内の子弟教育にあたっている。その理念は「 華夷の弁」 を明らかにすることであり、奇傑の人物は、必ずここから輩出するであろう。

ここにおいて彼等が毛利の伝統的価値を発揮することに貢献し、西端の僻地たる長門国が天下を奮発震動させる根拠地となる日を期して待つべきである。私は罪囚の余にある者だが、幸い玉木、久保両先生の後を継ぎ、子弟の教育に当たらせてもらえるなら、敢えてその目的遂行に献身的努力を払いたいと思う。

 


【解 説】

松下村塾記」 は、当時松下村塾の名で以て私塾を経営していた外叔久保五郎左衛門の求めに応じて松陰が書き贈ったものである。それは村の名前を冠した塾の教育の理想とその責務の大きさが述べられており、その抱負はまことにおおきい。文章もまた雄渾で口誦して士気の高まりを覚えるものがある。松陰自ら、「 略ぼ志す所を言ふ」 (小田村伊之助宛書簡、安政三年十一月二十日)と述べており、自信の作であると言えよう。ここで松陰は、教育の使命を、君臣の義をわきまえ、「 華夷の弁」 を明らかにした「 奇傑非常」 の人を育成するところに置いている。この考え方は後に自ら主宰者となった松下村塾においてはもとより、彼の終生変わらぬ教育観であった。なお本文については、それが自然の形勢からある種の哲学的見解をさぐり出している考え方は東洋的であるという指摘もある。