歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

川口支隊

 

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第 17 軍司令官、8月19 日、歩兵第 35 旅団長川口清健少将に、自今、川口支隊(第35 旅団司令部及び歩兵第 124 聯隊基幹)となり、海軍と協同して速やかにガダルカナル島を確保することを命令した。この頃まだ大本営は、ガダルカナル島陸上兵力は 2 ~ 3000程度と判断していたことから川口支隊の攻撃について楽観していた 。川口支隊の第 2 大隊、一木支隊第 2 梯団が乗艦した駆逐艦による最初の鼠輸送は、28 日にガダルカナル島上陸の計画であったが、ガダルカナル島飛行場から出撃したアメリカ軍機に妨害されて失敗しました。

これに伴い第17軍内では軍司令官自らも含めガダルカナル島放棄論が出された21が、29日夜、ショートランドを出港した第11駆逐隊(歩兵第124連隊第1大隊主力、人員450 名)及び第 24 駆逐隊(一木支隊第 2 梯団の一部、人員 300 名、速射砲 4 門)がタイボ岬に到着し、この駆逐艦輸送が成功したことにより、放棄論は自然消滅しました。
川口支隊主力(歩兵第 124 聯隊第 3 大隊基幹)も31日夜、タイボ岬のタシンボコへの上陸に成功した。その後、9月 2 日、4 日、5日、7日と残りの部隊も上陸した。結局、8月31日から 9月7日の間に延 50 隻の艦艇で輸送したのは、人員は陸海軍約 5600 名、主要兵器は高射砲 2 門、野砲 4 門、連隊砲(山砲)6 門、速射砲 4 門、糧食は総人員の約2 週間分である。艦艇 1 隻当たりの輸送能力を計算すると、人員 110 名、主用火器 0.3 門、糧食 2 週間分であったのです。

これからもわかるように火力の骨幹である砲兵、戦車等は絶対的に輸送船による必要があった。一方、舟艇機動で上陸を試みた歩兵第 124 連隊長岡明之助大佐が指揮する第 2 大隊約 1000 名は、マルボボ付近(ルンガ岬西方約 50 キロ)に達着したが、途中、アメリカ軍航空機の攻撃、荒天候等に見舞われ岡聯隊長が掌握した兵力は全兵力の 3 分の1に過ぎなかったのです。
川口支隊長は、9月 6 日、「支隊は、12 日1600 攻撃を開始し、主攻撃方向を南方ジャングルより北方飛行場に指向して、13日払暁までに全陣地を蹂躙する。岡部隊(舟艇機動部隊)は、海岸方面より飛行場西側方向に攻撃させる」という構想を第 17 軍司令部に報告した。川口支隊長は、更に聯合艦隊の協力について、「支隊の攻撃に際しては、艦砲射撃をやらないこと、海上から逃亡する米軍の殲滅をお願いする」と要請した 22。第 17 軍司令部は、総攻撃を 9月12 日と聯合艦隊に通知しました。
聯合艦隊司令部では、これを機会に囮の輸送船 2 隻を南下させ、アメリカ海軍の空母「ホーネット」と「ワスプ」(空母 「サラトガ」は、8月末、伊号第 26 潜水艦が雷撃により約3カ月間使用不能にした。)とを北へ誘き出し、空母 3 隻で集中攻撃を加える計画を立てた 。更に潜水艦の大部をサンクリストバル島南東海面に散開、邀撃させ、敵支援部隊、特に空母を、一部潜水艦をもってインディスペンサブル海峡東口を扼し、敵輸送船をそれぞれ捕捉攻撃することにした 。しかしながら、川口支隊の攻撃は 13日に延期され、これにより聯合艦隊による輸送船を用いての囮作戦も中止されたのです。

攻撃は、13日 20 時を期して右翼隊、中央隊、左翼隊と三方向に分けて実施された。右翼隊と左翼隊は鉄条網を有するアメリカ軍陣地の前に前進阻止され、中央隊の攻撃は、飛行場を瞰制できる橋頭堡南側の要点であるムカデ高地南側から2 個大隊並列して行われ、縦深にあった青葉大隊(歩兵第 4 聯隊第 2 大隊)の突撃は、ムカデ高地を越えて同高地北側の師団司令部付近まで進出したが、凄まじいアメリカ軍の火力に阻止され攻撃は中止となった。この中央隊の正面には空挺大隊、挺進大隊が配備についていたが、橋頭堡南側の弱点補強として 9月9 日に配備されたものであった。川口支隊の攻撃失敗に伴い第 17 軍は、川口支隊長にマタニカウ川河口以西においてなるべく敵飛行場に近いところに攻撃拠点を占領し、敵情を捜索するとともに、為し得る限り敵航空勢力の活動を妨害することを命じました。
9月15日、伊号第 19 号潜水艦はアメリカ第 7 海兵連隊等の輸送を護衛していた空母「ワプス」を撃沈した。これによってアメリカ軍が作戦に使用できる空母は太平洋の全域でわずかに「ホーネット」1 隻のみとなった。これに対し、日本軍はソロモン水域に 3 隻の空母(「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」)を有していた。この時点でゴームレー中将もマッカーサー大将もアメリカ軍はもはやガダルカナル島を保持できないと判断していた 25。ただし、第 7 海兵連隊4262 名、戦車、武器・弾薬、糧食等を搭乗させた船団は無傷で、18 日、ルンガ泊地に到着した。ヴァンデグリフト少将はこの増援及び後に予定されている陸軍部隊の増援などを考慮し、防勢一方から逐次積極的行動に移行しようと考え始めていた 。この第 7 海兵連隊がじ後重要な役割を演じるのであるのです。
第 7 海兵連隊の輸送は、日本軍の水上艦艇、潜水艦の危険を知りつつも、ヴァンデグリフト少将の緊急要請に基づいて空母「ワスプ」及び「ホーネット」を基幹とする機動部隊に船団の支援を命じて南太平洋部隊指揮官ゴームレー中将が命じたものであった27。この輸送船団に対しては、15日朝、日本の索敵機が発見したため、聯合艦隊司令長官山本大将は、先遣部隊にこれへの接触攻撃を命じました。

先遣部隊長小松中将は、インディスペンサブル海峡南口に潜水艦を集中し、輸送船団の邀撃を試みたが捕捉できなかった。ガダルカナル島に出入りする敵艦船は、同地飛行場の上空警戒が十分に得られる日の出以降に入泊し、日没後は退避するのを例としていたため、海峡の通過は夜となり、更に通過当時この海峡の天候は極めて不良で、しばしばスコールがあり、発見は夜間近距離とならざるを得ず、襲撃の機会を得られなかったのである。参謀総長杉山元大将は 9月5日、「今や南東太平洋方面における陸軍作戦としては、東部ニューギニア方面を守勢に止め、軍の主力を以てガ島を中心とするソロモンに主作戦を指向するほかなきこととなれり」と上奏した。これはラビを喪失し、ポートモレスビー攻略中の南海支隊に対する連合国軍の反攻が逐次激化したため、同方面へ投入予定の第 2 師団をまずガダルカナル島へ投入し、早期に決着をつけて二正面対処から脱しようとするものであった。このように、未だガダルカナル正面のアメリカ軍の反攻を安易に考えていた大本営陸軍部は、川口支隊の攻撃が失敗して初めてその重要さを認識し、急遽、第 17 軍司令部に大本営陸軍部研究班長小沼治夫大佐を先任として海軍、航空、船舶に長けた参謀を派遣し、3 名だった第 17 軍参謀を12 名に増員した 。小沼大佐は、ラバウルへの出発前、参謀本部の主要幹部から戦力を調整して正攻法でルンガ飛行場奪回に臨む必要があるとの指導を受けていた。そして聯合艦隊先任参謀黒島亀人大佐からは、「我が大規模の輸送及び敵の増援阻止の前提をなすものはルンガ飛行場に対する砲撃なり。陸軍は是非これを実行せられたし」と要望された。ルンガ飛行場を砲撃できる地域を日本軍が確保しているということは、アメリカ軍の橋頭堡がまだ不十分ということで、ヴァンデグリフト少将としては飛行場の安全化を図るために必ず攻撃して、この地域まで橋頭堡を拡張しなければならない。第 17 軍としては当面の処置として、戦力の大半を失った川口支隊をもってじ後投入予定の第 2 師団の攻勢の支とうを確保させなければならなかったが、既に川口支隊にはそのような力は残っていなかった。また、攻勢の支とうとなり得る地形、すなわちルンガ飛行場を砲撃できる地形がどこなのかという地形判断もラバウルにあった第 17 軍司令部には十分に出来ていなかったのです。