歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

第2師団

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10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第2師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。
作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。
なお、川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はヘンダーソン飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴」「瑞鶴」)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。
10月12日未明、ヘンダーソン飛行場の艦砲射撃第一陣として向かった重巡部隊が、サボ島沖海戦で敗北を喫することとなる。
13日の第2陣となった戦艦「金剛」「榛名」を中心とする艦隊がガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う(ヘンダーソン基地艦砲射撃)。
さらに翌14日朝にはラバウルから飛来した海軍航空部隊による空襲、14日夜には重巡洋艦「鳥海」「衣笠」による艦砲射撃が追い打ちをかけた。
これを受けて、第2師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。
一連の事前砲爆撃によって米軍航空部隊は飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていたが、海兵隊は既にヘンダーソンとは別に規模の戦闘機用の小さな滑走路を完成させていた。海軍の航空偵察も陸軍川口支隊もそれを察知しておらず、潰し損なったため、第2師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかった。結果、兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなってしまった。
第2師団は、ジャングルの迂回作戦で道を見失い支離滅裂となった川口支隊の失敗を受けて、大部隊による正攻法で攻撃を行う計画であった。
そのため20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と1個戦車連隊(戦車・装甲車75両)を上陸させようとしたがごく一部しか揚陸できなかった。
やむなく、作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗したジャングルの迂回作戦を取ることになり、当初の正面攻撃は一部の部隊が陽動として行うことになった。
だが、ジャングルを進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや支離滅裂の状態となった。
右翼部隊を指揮していた川口支隊長は第1次総攻撃の反省から、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐に迂回攻撃を進言したが、意見が対立し罷免された。

10月20日-24日の第二師団の攻勢
壊滅した陽動部隊の住吉支隊(1942年10月24日、マタニカウ川河口)
戦車や重砲はとてもジャングル内の迂回路を進むことは出来ないため、陽動隊に配属された。
その数は、水上機母艦「日進」などで輸送された野砲7門・九一式十糎榴弾砲4門・九六式十五糎榴弾砲15門・九二式十糎加農3門などにすぎず、
戦車は独立戦車第1中隊が九五式軽戦車及び九七式中戦車合わせて10数両を持つだけであり、何よりも砲弾が不足していた。
ジャングルの迂回路を進む主力には歩兵砲・山砲・速射砲・迫撃砲など小型で軽量の砲が配属されていたが、人力担送は困難を極め、大半は進撃路の遙か後方に取り残され、戦闘には間に合わなかった。
こうした状況にも係らず第2師団は「23日にはガダルカナルの占領を完了。ツラギ、レンネル、サンクリストバルに転進し、これを占領する予定なり」という意の電報を大本営に送っていた。

壊滅した第2師団(1942年10月25日)
こういった中で日本は10月24日にバラバラにアメリカ軍陣地に攻撃を掛けた。川口少将を罷免したことで右翼方面の連絡系統は著しく混乱し、
飛行場の1キロ手前まで到達したところで司令部に作戦成功を意味する「バンザイ」の電報を送った。
これは勿論誤報であったが、将校一同は「御芽出度う」と交歓し合い、井本参謀は日誌の一項を覆う大文字で「天下一品の夜」と記した。
左翼方面は敵に突撃し、哨戒線を突破したが砲火に晒され大損害を出した。
25日から26日朝にかけて第2師団は繰り返し夜襲をかけたが、装備の不足などから猛砲火を浴び戦傷含めた損害は半数以上と壊滅状態に陥った。
25日からは飛行場から発進した米攻撃機による空襲が始まり、高級将校多数が戦死した。
ラバウル基地の日本海軍航空部隊(零戦)は飛行場占領の誤報を受けガダルカナル基地を目指したが、その飛行場からF4Fが迎撃してきてパニックに陥った。
マタニカウ河の戦闘で撃破された九七式中戦車
陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では、住吉正少将が作戦の拡大を急遽決定し、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。
これに対し米軍は37mm対戦車砲や75mm自走砲を配備して日本軍を待ち構えていた。
戦車隊は河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2両も地雷で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。
26日には師団参謀がガダルカナル奪回は不可能との旨を辻政信参謀に報告し、作戦は中止された。
戦闘における全体の戦死者については、資料がなく不明であるが、第2師団麾下の歩兵第29連隊では、兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。
第二次総攻撃の総括とその後11月12日にガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎大佐が帰京し次のように第二次総攻撃の失敗について、
東條英機内閣総理大臣兼陸軍大臣に報告している。敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。
敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。我が軍の大隊長級の能力薄弱。
兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、下痢、栄養失調により第2師団の戦力は4分の1に低下。
戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な状況にある。現地の火砲は十五榴12門、十加2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、弾薬不十分。
糧食は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。軍司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。
敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は潜水艦でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに2日分の糧食を輸送できるに過ぎない(この時期に潜水艦による輸送は始まっていないため、駆逐艦の誤りと推測される)。
結論として、既定の第38師団・第51師団の投入を行うほか、ブカ、ショートランド、ガダルカナル島エスペランス岬付近に飛行場を整備し陸軍より戦闘機2個戦隊・
軽爆1個戦隊はぜひ必要。次期攻撃は18年1月末となるべし、と結んでいる。
また、11月16日に第8方面軍司令官今村均中将は昭和天皇に拝謁し、「南東太平洋方面よりする敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有するにつき、
速やかに苦戦中の軍を救援し戦勢を挽回せよ」との言葉を受け、同日、大陸指1338号によるソロモン群島方面の作戦要領が次の通り示された。
陸海軍の協力により各種の手段による敵機の活動封止に努めるとともに12月中旬を目処として所要の飛行場の整備を完了する。
飛行場の整備に伴いガダルカナル方面の敵航空勢力を制圧し、機宜に応じて船団輸送により攻撃兵力と軍需品を強行輸送しする。
作戦準備を拡大した上で、18年1月中旬末をもって攻撃準備の完成をなす。