歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

藤田幽谷と水戸学

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水戸学は国学と共に近世ナショナリズムの源泉であり、幕末、尊王懐夷思想の根拠になりました。水戸学が生まれたのは、水戸藩の第2代藩主徳川光圀が中国の「史記」を範とする日本史を構想して多くの学者を招聰し、彰考館を創設して編纂事業を始めたことによるものです。光圀の死後、大日本史編纂事業は停滞しましたが、1807年藤田幽谷が彰考館総裁になると制度史の部分の編集が本格化すると共に、藩政改革を目指す学者が輩出し、水戸学は急速に政治化しました。


光圀に始まる前期水戸学と幽谷に始まる後期水戸学を、国体論および君臣論について比較すれば次のようになります。まず国体について。前期水戸学は、日本の国家体制の独自性を、中国のように王朝が交替せず、皇統が一系であることに求め、天皇に対する忠誠を強調しました。後期水戸学もこのような考え方を継受したが、天皇の位が犯されず皇統が続いていることに基づいて日本の独自性のみならず外国に対する優位性までも強調し、欧米諸国に対する震夷を主張しました。次に君臣論に関しては、前期水戸学が儒教に従って、君主にも家臣にもそれぞれの名に応じた義務の遂行を求めるのに対し、後期水戸学は、特に君主に忠誠を尽す、家臣の義務を重視しました。

後期水戸学における、忠誠を重んじる名分論と民族中心主義的国体論は、幽谷の弟子の会沢正志斎や藤田東湖らの著作を通じて全国に宣伝され、武士層に大きな影響を与えました。幕末武士層に与えた影響という観点から、後期水戸学の意義を考えれば、

①国体論に基づく天皇への忠誠の強調

②統一的な国防政策を持つ強力な国家という考え方の導入

③国家的宗教としての神道の提唱

武士層は当初、宗教的中心である天皇の下に、将軍が国体を守るために政治を行うという後期水戸学の国家像を受容して、幕府自身による国政改革を期待しましたが、

ペリー来航以来、その期待が裏切られると意見を分裂させました。
それを分類すれば、①あくまでも幕府に政権を持たせた上での国政改革、②大政奉還によって平和的に朝廷に政権を移し朝廷中心で行う国政改革、③幕府を武力で倒し朝廷中心で行う国政改革、という3つの路線になります。
水戸藩の穏健派武士はあくまで①の路線をとったが、幕臣大久保一翁肥後藩横井小楠は②の路線、水戸藩の過激派武士や長州藩吉田松陰は③の路線を選んだのです。朝廷中心の体制を構想する②や③の路線が生まれたのは、後期水戸学が全国の武士に対して、将軍の上にある天皇の存在を知らせて、天皇に対する忠誠を力説し、
統一的な防衛政策をもち、欧米諸国に対抗できる強力な国家の必要性を認識させたからであります。