歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

藤田小四郎と天狗党の乱

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江戸末期の水戸藩士。東湖の四男。名は信、字は子立、小四郎は通称です。
幼少より父東湖に水戸学を学び、詩文にも長じました。文久3年には長州藩桂小五郎らと東西呼応しての挙兵をはかったが果たせませんでした。そこで元治元年3月、同志を募り、筑波山に挙兵しました。しかし、戦い破れ武田耕雲斎らとともに尊攘の素志を朝廷に訴えるため京都へ向かう途中、同志とともに越前の新保で加賀藩に降伏します。翌慶応元年2月、敦賀の海岸で刑死しました。享年24歳の若さでした。墓は敦賀市水戸市の常盤共有墓地にあります。

《逸話》
小四郎が7、8歳の頃、東湖先生と話をしていると、彼が庭の入り口から入ってきて、「お父さん、今あの杉の木の下に雉子が一羽いる所へ三尺ばかりの蛇が出てきて、その雉子をぐるぐる巻きつけた。すると雉子が二つ三つ羽ばたきすると、蛇の身体がバラバラに斬れてしまったよ。」と真面目に言うと、東湖先生は、「あの通り親を馬鹿にする仕様のない奴だ。」と言ったことがある。またある時、二、三人で東湖先生の所で酒を飲んでいて、先生が手を打ったのに奥さんが「何か御用でござりますか」と出てくると、廊下で遊んでいた小四郎が、「お母さん、お手が鳴ったら銚子とさとれ。」と唄いだしたので、先生は腹を立て、「無礼な奴だ」と鞭を取って追いかけ回したことがあった。ある日、東湖先生と話をしていると、往来を豆腐屋が通る。すると小四郎は大きな声で、「岡部忠蔵が来た」と言うので、先生も自分も顔を見合わせて苦笑いをした。その訳は、大和言葉で、”オカベ即ち豆腐”のことにて、岡部に豆腐というあだ名を付けていたから、小四郎は之を聞き覚えておったものだ。