歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

幕末志士と湊川神社

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楠木正成公は延元元年(1336)5月25日 、正成公は「湊川の合戦」で足利軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、多勢に無勢で味方はわずか73人に減ってしまいます。もはやこれまでと覚悟した正成はこの地にあった民家に入り、「七生報国」を誓つて弟の正季と刺し違えました。湊川神社の表門から入り、一番左奥が終焉の地にあたります。楠木正成公の墓所が記録に現れるのは、豊臣秀吉の時代で、それ以前は憚られたと思われます。江戸時代になり、墓所の地は尼崎藩の管轄となりました。尼崎藩主 青山幸利の頃、墓所五輪塔が建てられました。その後、徳川光圀によつて本格的な墓碑の建立を進めます。光圀は、日本の史書編纂を志し『大日本史』の編纂に着手しました。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、足利幕府が擁立した北朝ではなく、南朝を皇統の正統とする史論に至りました。太平記によって英雄化された楠木正成公はその一番の忠臣として挙げられました。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至ります。慶応3年 (1867)に尾張藩徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ明治2年墓所口殉節地を含む7,232坪を境内地と定め、明治5年5月24日 湊川神社が創建されました。

伊藤博文大隈重信江藤新平大木喬任、など明治の元勲たちも石灯籠を奉納しております。吉田松陰先生は、楠木正成公を非常に崇拝しており、水戸光圀公が正成公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立した後、楠公墓前に4度も参詣しています。松陰先生は墓碑の拓本を表装して松下村塾に掲げ、久坂玄瑞高杉晋作入江九一吉田稔麿など沢山の門下生に大楠公の話を聞かせました。また「七生説」では、楠公の忠誠節義を説き、尊皇攘夷に駆ける門下生を奮起させました。松陰先生の維新の勤王思想の母体となったものは、正成公への尊崇の念と密接に関係しているといっても過言ではないのです。

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