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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

旅順港閉塞作戦と広瀬武夫

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開戦当初、日露戦争は大陸に増強されているロシア軍と戦うためには、まず、日本陸軍を大陸に送り込むための海路を確保することと、これら陸軍への補給支援のための海上交通路を確保することが、まずは最優先された。このため、東郷艦隊はロシアの極東艦隊(写真)を撃滅し、制海権を獲得する必要がありました。しかしながら、19 万トンというロシア極東艦隊の大兵力はほとんどが旅順港に入っていて出てきません。そこで「旅順は閉塞する以外にない」という非常作戦が考え出されました。この旅順港閉塞作戦を唱えたのが戦艦「朝日」の水雷長、広瀬武夫少佐であります。この作戦は多くの犠牲を伴う作戦であり当初、東郷司令官は反対するが広瀬の情熱によって実行されることになります。総人員は士官である指揮官、機関長をのぞくと 67 人が必要で、下士官以下の人員はひろく艦隊から志願者をつのりました。たちまち 2 千人以上が応募したため、広瀬を驚かせ、なかには血書をして志願する者もいました。このとき、ロシアの駐在武官を経験した広瀬はロシアの軍人と日本の軍人を比較し、「日本人は 1 人 1 人が命がけで戦っている。このいくさは日本が勝つ」と東郷艦隊の参謀である秋山真之にいいました。かくして、旅順港閉塞作戦は1904年2月24日に決行されることになります。指揮官有馬良橘中佐の乗る「天津丸」を先頭に広瀬の報国丸他5 隻で行われましたがロシア軍の湾口の砲台からの砲撃によってほとんどが手前で自沈せざるを得ず、第1回目の閉塞は失敗に終わります。第2回目の閉塞作戦が 3 月 27 日に再び有馬を総指揮官として決行されますが、この作戦も結局は失敗に終ります。この時、閉塞船「福井丸」に乗って進出した広瀬武夫はこの作戦で部下である杉野兵曹長を船が沈むぎりぎりまで探しますが見つからず、ボートに乗り込んだ直後、敵弾が広瀬の体に命中し戦死します。このときの広瀬中佐の指揮の状況について触れたいと思います。広瀬が指揮する福井丸が湾口付近に近づいたとき、探照灯に照らし出された福井丸に要塞砲が集中します。広瀬は福井丸を沈めるための処置をして、全員がボートに移り退艦しようとしたとき、広瀬の部下である杉野兵曹長がいないことに気づきます。広瀬は益々激しくなる敵弾の中で、「杉野、杉野」と叫びながらボートと船内を3度も往復したと言われています。いよいよ福井丸が沈む段になり、やむなくボートに乗り移ったとき、敵の砲弾が広瀬に命中ひとかたまりの肉片と血だらけの海図を残して、広瀬の姿は消えたのです。このときの広瀬の血痕が、部下の外套にふりそそぎ、その外套が今も広島県江田島市にある海上自衛隊教育参考館に納められています。この広瀬中佐の胆力と部下との心のつながりは、広く世に広まり、広瀬中佐は、日本で最初の軍神になります。