歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

吉田松陰先生の最後の振る舞い

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1859年(安政6年)5月25日早朝、松陰先生は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かいました。松陰先生が江戸に送られた罪状は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰先生に会った事を話したことが理由でした。江戸の評定所が松陰先生に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と京の御所に文書を置いたのではないかという2点でありましたが、違うとゆう松陰先生の主張は受け入れられました。このような場で松陰先生は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまいます。人間を絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと孟子性善説の考えを持つ松陰先生ゆえの告白であっりましたが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕しました。しかし、この時、松陰先生の命運は決まってしまったのです。評定所の役人の態度から死を覚悟した先生は、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を伝馬町牢獄で記したのです。江戸伝馬町の刑場(現在の小伝馬町駅付近)で1859年10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれたのです。死に際しても平静かつ潔い先生の姿に、首切役の山田浅右衛門は胸を打たれ、その様子を後々まで回顧いたしました。~いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖し、「御苦労様と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した~