歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

松陰門下の四天王、吉田稔麿と池田屋事件

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吉田稔麿は、高杉晋作久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀とゆわれたほどの人物です。吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれます。松陰先生主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き、門下生となります。初期の松下村塾入塾生であり、松陰が特に親愛の情を示した稔麿には「無逸」という字が付けられ、同じく「無」がつく字を付けられた増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われます。無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」「久坂玄瑞の才能は自由自在で妨げるものは何もない。高杉晋作は陽頑、つまり頑固さが表に出るが、稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない」と高く評価しました。文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月には「屠勇隊」を創設します。8月の朝陽丸事件では始末を任され、烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功します。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件池田屋に稔麿も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。 しばらくして戻ると新撰組池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死します。他の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にしたとされております。 またさらに別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もあり、24歳の若くして散った、稔麿の最期については諸説ございます。