歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

熊本の尊皇攘夷派、宮部鼎蔵と池田屋事件

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宮部鼎蔵は1820年4月、肥後国益城郡田代村で、春吾の長男として生まれました。代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいます。家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就き、山鹿流軍学を学んだのです。その後、兵学師範である村上傳四郎に師事し、24歳のときには村上傳四郎の代見を仰せ付けられている。30歳のとき、中尾ゑ美と結婚。この頃、肥後藩に召し出されて、31歳の時、軍学師範となりました。1850年には長州藩吉田松陰先生と同じ山鹿流軍学を学んでいたと言う事で、吉田松陰先生が九州遊学した際、宮部鼎蔵の家に宿泊し会談しました。1851年、宮部鼎蔵は江戸へ赴任すると、江戸に出ていた吉田松陰と再会し、意気投合して親交を更に深めました。そして、松陰先生とともに房相や東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊しております。そのあと、熊本に戻ると林桜園(はやしおうえん)に就いて原道館に入ると、皇朝の古典や国学などを学んでおり、黒船が来航すると江戸に出て同志をまとめております。1859年、吉田松陰先生が処刑されると熊本に戻ったが、門人・丸山勝蔵や、実弟・宮部大助らが起こした水前寺乱闘事件で連座し、兵法師範職から解任され退隠生活にはいりました。その後、肥後勤皇党に参加すると中心的な人物となった。七滝村で退隠している所に、出羽の清河八郎が訪ねて肥後勤皇党にも攘夷に参加するよう説得されました。宮部鼎蔵も説得したが、肥後勤皇党は動かず、藩も同様だった為、宮部鼎蔵は奮起して京都に上り、勤王志士と交流し政治活動を再開したのです。全国諸藩から選抜された親兵3000人が設置されると総督・三条実美の下で宮部鼎蔵が総監に命じられました。しかし、1863年八月十八日の政変で、朝議が一変し、長州藩が京より追放されると警備にあたっていた熊本藩士らも解散となったが、宮部鼎蔵ら尊攘派志士たちは脱藩して三条実美ら七卿と共に長州藩へ落ちのびました。その後、再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿しておりました。1864年6月5日未明、同志の古高俊太郎が新撰組に逮捕された為、京都三条小橋の池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派、20数名がひそかに会合し救出作戦を練ろうとしたのです。そこを近藤勇土方歳三らが率いる新選組に襲撃され、奮戦するも自刃しました(享年45)弟の宮部春蔵も、1864年禁門の変に参加し、真木和泉らと共に天王山にて自刃しました。(享年26)このように勤王志士として活動していた大半の志士達は、表にでること無く、大和魂を目指して散っていったのです。宮部鼎蔵が亡くなった5年後に明治維新を迎え、新しい時代が始まったのです。