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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

禁門の変(蛤御門の変)

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蛤御門の変とも言う。この門は「新在家御門」と言われ開かずの扉であったが、1788年の天明の大火で御所が炎上した折、初めて開門された。この為、禁門が「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門(俗称)と呼ばれるようになった。1864年に尊王攘夷派(長州藩)と徳川幕府会津藩)の戦いが勃発した。原因は前年( 1 8 6 3 )に遡る。

池田屋事件である。1863年長州寄りの公家七卿(注2)が、攘夷を祈願するため天皇神武天皇陵と春日神社への大和行幸を建議し布告した。しかし会津側は「長州寄りの公家は裏で討幕を計画している」と中川宮(注3)に訴えた。それを中川宮が天皇に奏聞した。天皇は長州寄りの三条実美ら七卿の官位を取り上げ、参議の毛利慶親を解任した(十八日の政変=七卿の都落ち)。孝明天皇には討幕の意思はなく、行政機関としての幕府との共存を願っていたからである。天皇の意思も知らない長州・土佐・肥後の尊王攘夷派は、都での失地回復を目論み時機をみて決起すべく、筑前の御用商人桝屋喜右衛門方に兵器類を隠したのである。しかし、この情報は新撰組の知るところとなり桝屋宅を捜索。結果、大量の兵器弾薬が見つかってしまった。京都守護職松平容保会津藩主)は、幕府に対して謀反の疑いありとして、長州藩士がよく使う池田屋に目をつけていた。1864年7月、長州を中心とした尊王攘夷派は「京都守護職松平容保襲撃の計画」を立て、具体的な打ち合わせのため密かに池田屋に集まった。このときを狙って容保は新撰組池田屋を急襲させた。そのため、長州を主力とする尊王攘夷派の多くの志士が殺された。運の悪いことに、この中に土佐出身で勝海舟坂本龍馬が所属する幕府の神戸海軍操練所の塾生望月亀弥太がいたのである。軍艦奉行かつ神戸海軍操練所総裁であった勝海舟は、勝自身幕臣でありながら討幕を企てた者を訓練に参加させていた責任をとらされ罷免されてしまい、また神戸海軍操練所自体も解散させられてしまったのである。ちなみにナンバー2としての塾頭は坂本龍馬であった。龍馬にとっても大きな痛手であった。長州は、この池田屋事件の報復として軍を率いて上京し、禁門の変蛤御門の変)を引き起こした。このとき、薩摩の小松帯刀のもとへ一橋慶喜より「皇居周辺より長州兵を退去させよとの朝命が下されたの

で、薩摩藩も出兵するように」と要請があった。このとき帯刀は「元々非常の節には皇居を警備するよう薩摩藩に朝命が下っているので、一橋公の命では出兵できないが、朝命であれば出兵する」と、薩摩藩の立場を鮮明に打ち出している。長州の兵力は3,000人。対する幕府軍約8万人。幕府軍の楽勝かに見えた。長州の国司信濃の率いる500余名は、蛤御門、下立売門、中立売門の三方面に攻撃を開始した。中立売門を護っていた筑前と一橋の銃撃隊は、たちまちに敗れた。会津下立売門を護っていたが、長州の猛将来島又兵衛による正面突破攻撃がなされ、会津はあえなく敗れてしまい、蛤御門も長州に占領されてしまったのである。一時的とはいえ、兵力差に劣る長州軍の士気の高さと兵器の違いが大きくものをいった。その後、西郷隆盛の指揮する薩摩軍が幕府軍の援軍に駆けつけ、長州より一段と勝る薩摩の誇る最新式大砲四門と最新式のスペンサー銃の威力により来島又兵衛の軍を打ち破り、さらに薩摩の抜刀隊の突撃により形勢を逆転させた。幕府側は薩摩軍のおかげで三門(蛤御門、下立売門、中立売門)とも取り返すことができたのである。勇敢に戦った長州の来島又兵衛は自刃して果てた。