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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

久坂玄瑞と禁門の変(蛤御門の変)

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1863年8月18日の八月十八日の政変で長州勢が朝廷より一掃されたが、久坂玄瑞は京都詰の政務座役として在京して失地回復を図ったが、一方で薩摩藩会津藩と手を組み、長州藩は苦境に立たされていきます。三条実美真木和泉来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めるなど対応にも苦慮いたします。しかし、1864年4月、薩摩藩島津久光、福井藩の松平春嶽宇和島藩伊達宗城らが京都から離れたのを機とみて、久坂玄瑞急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を請いました。そして6月4日、進発令が発せられ、福原越後、国司信濃ら三家老による藩兵が組織されたのです。また、池田屋事件の悲報が国許に伝わると長州藩内は、もはやその勢いは止められるものではなくなり、久坂玄瑞来島又兵衛真木和泉らと諸隊を率いて東上を開始しました。長州軍は京都内外に陣取り、藩主父子と五卿の赦免と入京許可、そして攘夷の国是確立を武力を背景にしつつ、6月24日、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷に奉上しました。長州藩に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、朝廷はあくまで長州勢の退去を命じたのでありました。7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わり、幕府は諸藩に令を下して京都出兵を促していた。7月17日、男山石清水八幡宮の本営で長州藩最後の大会議を開催。大幹部およそ20人ほどが集まった。久坂玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないと、兵を引き上げようとしていたが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄ったのです。久坂玄瑞は「今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島又兵衛の進撃論と激しく対立いたしました。来島又兵衛は「卑怯者」と怒鳴り「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と立ち去ったのです。最年長で参謀格の真木和泉も「来島君に同意を表す」と述べ、この一言で進撃の議はほぼ決まるのです。このように切迫した場面で、慎重論に同調する者はほとんどおらず、久坂玄瑞は止むを得ざると覚悟し、その後一言も発することなくその場を立ち去り天王山の陣に戻っていきました。諸藩は増援の兵を京都に送り込み、その数2万とも3万とも膨れ上がっていたのに対して、長州藩は2000で戦いを挑まざるを得なかったのです。7月19日早朝、長州勢は御所に向かって進軍開始し、御所を守る諸藩と交戦となりました。蛤御門を攻めた来島又兵衛の戦いぶりは見事なもで、会津藩を破り去る寸前までいったが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、来島又兵衛が狙撃され長州軍は総崩れとなりました。この時、狙撃を指揮していたのは薩摩藩士の西郷隆盛である。開戦後ほどなく久坂玄瑞は勝敗が決したことを知ったが、それでも久坂玄瑞の隊は堺町御門から乱入し越前兵を撃退し、薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内に入ったのです。久坂玄瑞は一縷の望みを鷹司輔煕に託そうとしたのであった。鷹司邸に入るとすぐ、久坂玄瑞鷹司輔煕に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと哀願したが、鷹司輔煕久坂玄瑞を振り切り邸から逃亡しました。屋敷は敵兵に囲まれて火を放たれ、すでに火の海となっており、流弾を受け負傷していた久坂玄瑞は全軍退却命令を出した。
 入江九一らに「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託し、最後に残った久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃して果てました。(享年25歳)志半ばにして、その短い人生を終えてしまう結果となったのです。