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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

真木和泉と禁門の変(蛤御門の変)

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文化10年(1813)3月7日、筑後国久留米城下瀬下町にある水天宮神官真木左門旋臣(としおみ)の家では待望の男の子が呱々の声をあげた。幕末維新の志士たちの多くがまだこの世に生まれ出ていなかった。
真木和泉を中心に数えれば、横井小楠4歳、佐久間象山が2歳年上であることを除けば、以下の人はすべて年下で、西郷隆盛14年、平野国臣15年、吉田松陰大久保利通は17年、木戸孝允23年、高杉晋作にいたっては26年も年下である。真木和泉は両親から五尺八寸の身長、しばしば力士に間違われたところの肥満した体躯、角ばった赤銅色の顔、広く秀でたひたい、跳ね上がった薄い眉、威力のある目、大きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿を受け継ぎ、加えるに討幕唱始者として久留米一藩を驚倒させ、天下の耳目を聳動させたあの激しい気性を受け継いだのである。ところが幼年時代の和泉は、長男の故か起居動作に老成人の風あり、同年輩の子供らと遊び戯れることがなく、豪放闊達とうよりむしろ小心翼々たるものがあったといわれる。読書にはよくはげみ、母柳子の言うところでは読み書きせよと命じられることなく、むしろ勉学に過ぎて病気にかかるのを心配したほどであったとされている。このころから楠正成の伝記に親しんでいたという。長じて楠公崇拝は勤皇思想と結びつき、その威力は周りの人々を巻き込んでいくことになる。

真木和泉禁門の変の前の活動として、長州藩を足がかりに攘夷親征、大和行幸計画を名目とする討幕を目指すが、文久3年8月18日、会津藩と薩摩が結託して長州藩を追放した政変で挫折(八月十八日政変)、長州藩の御所警備は解かれて、薩摩・会津がこれに代わり、三条実美ら七卿は長州に落ちた。和泉も七卿に従い、日夜その対策に参加した。和泉はしばしば建言して武力をもって上京し、君側の奸を除き、8月18日以前に返すべきことを力説した。それを著したのが10月に著した「出師三策」で軍事力による朝廷奪回を主張している。ついに、長州藩主は国老福原越後、国司信濃をして兵を率いて上京させ、哀訴することにした。和泉は浜忠太夫または甲斐真翁と変名し、各藩浪士で組織した清側義軍300名を久坂玄瑞とともに総管して、ともに上京した。元治元年(1864)6月24日、清側義軍は山崎に到着し、天王山に陣営を構え、久坂玄瑞・中村円太などと連署して七卿復帰・長州公の入朝・攘夷の発令の哀願書を閣老稲葉美濃守に託したが上に通じなかった。元治元年7月の禁門の変では久坂玄瑞来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加、7月19日、堺町御門を目指して進軍したが、福井藩兵などに阻まれて敗北。天王山に退却、長州へ敗走することを拒否して和泉は21日、天王山において、挙兵の責を痛感して自刃した。このとき、弟直人・息子菊四郎はともに死を願ったが、和泉はこれを止め、後日の再挙に託して、ここを去らせた。そして同志17人とともに、「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」の辞世を遺し、割腹した。時に52歳であった。和泉以下17人の屍は宝寺塔前に埋められたが、その墓はいつしか「残念さん」と言われて参詣するものが後を絶たなくなった。幕府はこれを忌んで、衆人の登山を禁じ、その屍を宝寺山下の竹林に転埋した。明治元年9月、和泉の嗣子の佐忠が久留米藩の命により、17士の遺骨を竹林の中から収集して、割腹の地に改葬した。

真木和泉の言葉】

「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」

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