歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

寺島忠三郎と禁門の変(蛤御門の変)

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今回取り上げるのは寺島忠三郎です。長州藩で生まれました。無給通組・寺島直一の次男となります。1858年、16歳の時から長州藩の藩校・明倫館にて学んだのち、吉田松陰松下村塾にも入門し、高杉晋作久坂玄瑞らとともに学びました。寺島忠三郎は兵学を好み、詩文に長けていたとされ、吉田松陰は「些の頑骨あり、愛すべし」と評し、深く信頼しました。1859年、安政の大獄連座した吉田松陰の減刑に奔走するも、ついに吉田松陰が江戸に送致される事となり、他の塾生が涙松で別れを告げた後も、1人密かに生家のある高水まで追従し、故郷の熊毛郡呼坂まで見送り、別れの歌を交換しています。「よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん」・寺島忠三郎 1862年3月、京都に上ると攘夷運動に奔走して、京都での松陰慰霊祭では祭主を担ったのです。1862年に高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤禰武人、山尾庸三、品川弥二郎ら10名にて「御楯組」を結成します。1863年3月、京都東山の翠紅館で藩世子・毛利元徳臨席のもと、熊本藩士の轟武兵衛、久坂玄瑞と会合を開き、将軍上洛に先立ち、攘夷期限の決定を迫りました。その後も桂小五郎と供に京都に残り、攘夷親政を工作などに奔走します。1864年「八月十八日の政変」で、長州藩が失脚した後も京都に潜伏し、寺島忠三郎は変名を使って情報収集を行いました。池田屋事件新選組長州藩士を殺されたとの報が長州にもたらされると挙兵論が勃発し、慎重派の周布政之助高杉晋作、宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めたが、もはや福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老などの積極派を抑えることは出来ず、長州藩は討薩賊会奸を掲げて挙兵したのです。益田右衛門介、久坂玄瑞らは山崎天王山の宝山に、国司信濃来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣を構えました。そして、久坂玄瑞らとともに浪士隊を率いて戦うも、禁門の変(蛤御門の変)にて敗れ、寺島忠三郎は久坂玄瑞入江九一とともに鷹司邸内に立て籠もりました。しかし諸藩に包囲されて自刃。寺島忠三郎は鷹司邸にて久坂玄瑞とともに自刃したと言われております。(寺島忠三郎・享年21歳)