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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

西郷隆盛と禁門の変(蛤御門の変)

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元冶元(1864)年2月28日、西郷は沖永良部島に幽閉されてから約1年8ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、この時以降に西郷の縦横無尽な維新への活躍が再び始まるのです。西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の「八月十八日の政変」で同盟した会津藩と手を切ることでした。確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすためだけに会津と手を結んだことへのしわ寄せが、薩摩藩の現状を悪化させていると考え、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟に関係した人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力をあげました。一方「八月十八日の政変」で京から追い落とされた長州藩ですが、この年に起こった池田屋事件に激昂した長州藩内の急進派と呼ばれる人々は、京での勢力回復を目指し、前回紹介しました福原越後ら三人の家老を将として、京都に向けて大軍を進発してきたのです。長州藩兵は、伏見、嵯峨、山崎といった京周辺に陣を構え、いつでも攻撃できる準備を始めました。この事態を憂慮した京都守護職松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求したのですが、西郷は「池田屋事件は、会津と長州との間の私闘である」と出兵を拒否、薩摩藩は御所の周辺を重点的に守るという方針を立てたのです。元冶元(1864)年7月18日夜、ついに痺れを切らした長州藩兵が動き出し、蛤御門を中心に攻めかかりました。前年からの恨みを晴らすかの如く、長州藩の勢いは誠に凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せました。この状況を知った西郷は、自ら藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名も一躍京において有名となりました。

 

※西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛文政10年12月7日1828年1月23日) - 明治10年(1877年9月24日)は、日本武士薩摩藩士)、軍人政治家薩摩藩の盟友、大久保利通長州藩木戸孝允桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。