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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

高杉晋作と禁門の変(蛤御門の変)

 

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京都では「八・一八の政変」が起こりました。 これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。 一つは遊撃隊の総督を務めていた来島又兵衛らによる武力で解決しようとするグループ、 もうひとつは、周布政之助高杉晋作らによる慎重に事を進めようとするグループです。高杉晋作は、藩主の命令により、来島又兵衛の説得を行うことになりましたが、これがなかなかうまく行かず、 ついには様子を見てくるといって、藩主に無断で京都に行ってしまいました。 桂小五郎たちに説得され、長州藩に戻った晋作は、この行為が脱藩とみなされ、 かって吉田松陰も投獄されていた牢屋、野山獄に入れられてしましました。 高杉晋作は、約三ヶ月もの間、野山獄に投獄されていたのですが、 その間、長州藩は大きな危機をむかえていました。

京都の池田屋新撰組との乱闘の末、池田屋事件吉田稔麿を失い、京都蛤御門付近で長州藩士と、会津藩桑名藩薩摩藩の諸隊との衝突した禁門の変がおこり、 久坂玄瑞、入江久一、来島又兵衛を失ってしまいました。 これらの事変により、松下村塾四天王のうち、残ったのは高杉晋作だけとなりました。また幕府は、禁門の変長州藩兵が発砲した銃弾が御所へ向けて飛んだという理由で、 この責任をとらなければ、長州に攻撃をしかけると脅してきました。 そのうえ下関では、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊が 報復攻撃をしかけてきました。