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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

会津藩、新撰組の禁門の変(蛤御門の変)

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一橋慶喜禁裏御守衛総督桑名藩主の松平定敬京都所司代に就任し、会津藩で兄弟である松平容保と次第に連携を深めていきます。この連立権力は、頭文字をとって一会桑の権力と呼ばれています。会津藩は、そのなかで軍事面の中核を担いました。1863年の八月十八日の政変で、長州勢を京都から駆逐会津藩はその報復に備えて、領地からの人足動員体制をととのえていきます。その過程で、元治元年6月には、15歳から60歳のうちで健康な男子の数を村々に申告させました。その翌月には、上洛してきた長州勢との間で禁門の変と呼ばれる戦闘を展開しますが、会津藩は直前の申告に基づき領地村々から農民たちを総動員しています。村々の協力もあって、会津藩が勝利を収めると、今度は長州勢の残党探索が始まります。市域でそれを担当したのは、会津藩配下の新撰組でした。新撰組禁門の変の激戦には間に合わなかったようで、残念ながら最前線に立つ機会がなかったのですが、蛤御門守備の会津藩へ合流した時には 彼らより一足早く到着した薩摩藩が最前線で戦っており、新撰組はそれに従うのみだったのです。言ってしまえば先を越されて しまったのであります。新撰組は18日夜に、伏見つまり福原越後隊が布陣する長州屋敷に夜襲をかける予定で、幕府本陣から至急招集がかかったのは その準備の真っ最中だったのです。彼らの夜襲の前に福原隊が動き出してしまったのでありました。その後、残党狩りを行い、新撰組は、薩摩・伊予松山・小浜・小田原・膳所藩兵と共に嵯峨天竜寺を焼き討ちにするが、長州兵は1人もいませんでした。その後の真木和泉の残党を追って、会津薩摩藩兵に加わり天王山を包囲、山頂を目指して進発。山頂に達すると真木が姿を現したが、 一斉討手に大砲を浴びせ即座に陣小屋へ引き返すと17人全員が自決してしまったのです。ここでもまた新撰組は白兵戦を戦うことはなかった。※蛤御門の名前の由来とは⇒蛤御門は常に閉ざされた門だったが、天明8年(1778)の大火の時に開けられたので、焼かれて口を開く蛤のようだということでこの名が生まれました。