歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

第一次長州征伐

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第一次長州征伐とは、禁門の変の処分のために幕府が長州に対し成敗するための軍事行動です。単独での外国船砲撃など過激で急進的な攘夷活動が目立っていた長州藩でしたが、朝廷への影響力も強まってきておりました。そのカウンターとして薩摩藩会津藩は朝廷工作を行い、勅許を得て長州藩や攘夷派の公家を京都から追放した事件を八月十八日の政変と言います。京都を追われた長州藩士たちは、罪の回復のため兵を引きつれ御所へ押し入り、戦闘が勃発します。この御所襲撃事件を禁門の変といいます。結果、長州藩は敗北に終わり、久坂玄瑞入江九一など多くの逸材を失うことになります。さらに、御所内に向け砲撃してしまったことにより長州藩は完全に「朝敵」となり、禁門の変から2日後、孝明天皇は長州伐令を出すことになります。これが第一次長州征伐です。この長州征伐、出兵命令を出された西国諸藩も戦費負担を気にしたため、厭戦ムードが内在していると言われております。幕府軍の総督となる前、尾張藩主の徳川義勝もその任を何度も断ったほどです。しかし、全権を彼に任せるという条件によって引き受け、参謀には薩摩藩西郷隆盛がつきました。この長州征伐に先立って西郷隆盛勝海舟と出会っていました。勝海舟から公武合体(朝廷と幕府が協力して国政を担う)の限界と雄藩連合による新政権の実現の話を聞かされた西郷隆盛は考えを改めるのです。1度は長州藩撃滅を決意した西郷でしたが、勝海舟との会談後、長州藩の処分を軽くし、長州藩の力を温存を考えるようになるのでした。もはや相次ぐ敗戦にて長州藩は降伏条件を受託するほかなく、藩主の謝罪文、3家老の切腹三条実美らの追放、山口城の破却を受け入れ、第一次長州征伐は戦わずして長州敗北となるのです。