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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

竹永事件

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竹永事件とは大東亜戦争ニューギニア戦線で日本軍の師団の一部が集団で、オーストラリア軍に投降した珍しい事件です。1945年(昭和20年)3月から4月頃、日本陸軍第41師団歩兵第239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペ南東内陸のトリセリー山脈南側で、追撃してくるオーストラリア軍と交戦中でありました。竹永正治中佐率いる同連隊第2大隊約50名は3月24日から、東方へ後退しつつある連隊主力とは離れて、独断で西方へ移動を始めました。ただし、竹永隊の小隊長の一人だった曹長の手記によると、逆に連隊主力の方が連絡もなく移動してしまったため、見捨てられたと判断して独自行動に移ったといわれております。4月中頃、約45人の竹永隊は、家屋数戸のタウ村に食糧を求めて侵入しました。投げ槍や手榴弾などで武装した村人が、食糧を探し始めた日本兵を攻撃し、戦闘となりました。まもなく村人は逃げ去ったが、双方に2人ずつの死者が出ました。竹永隊は翌朝にタウ村を出たが、なお付近にとどまったのです。警察隊や住民からの通報で竹永隊の存在を知ったオーストラリア陸軍は、4月16日、第2/5大隊からC・H・マイルズ中尉の率いる1個小隊を選び掃討に派遣しました。4月24日、マイルズ小隊は竹永隊と接触して銃撃戦となり、日本側2人が戦死しました。ひとまず追跡を振り切った竹永隊であったが、それ以上は戦闘を続けずに投降することに決めたのです。兵が以前から所持していた降伏勧告ビラに、英文で降伏条件などを書き加え、棒に結びつけて後へ残したのです。マイルズ小隊の斥候がビラを発見して持ち帰ったのです。5月2日、オーストラリア軍は西方のウォムグラー集落付近で竹永隊を発見し、現地人を案内に立てて接触を図っておりました。日本側から2人が軍使として訪れて交渉し、翌5月3日、竹永隊はウォムグラー集落で降伏して武装解除されたのです。このときの兵力は竹永中佐以下42人(士官5人、准士官4人、下士官・兵33人)で、軽機関銃5丁と小銃17丁、拳銃5丁、弾薬750発を装備していました。捕虜たちは、マイルズ小隊に護送されてマプリック飛行場まで3日間の行軍を整然と行い、そこからアイタペへと空輸されました。