歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

国司信濃と禁門の変(蛤御門の変)

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長州藩家老・国司親相(国司信濃)寄組・高洲元忠の次男として誕生し、同じ寄組の国司家(五六〇〇石)の養嗣子となり、五歳で家督を継ぎました。
国司家は毛利元就の嫡男・隆元の傅役を務めた元相に遡る重臣の家系です。寄組の中でも最上位の名家であることに加え、信濃は幼時から聡明で、家中でも期待される青年幹部に成長しました。長州藩文久元年(1961年)以来、直目付・長井雅楽(うた)の「航海遠略策」に基づく公武合体・積極開国を唱えていたが、親密だった老中・安藤信正の失脚、島津久光の率兵上洛などで情勢は大きく変わっていました。藩内での立場が悪化した長井は文久三年(一八六三)二月に切腹し、長州藩論は破約攘夷に転換、このとき長井の検視の責任者を務めたのが国司信濃である。孝明天皇が攘夷祈願のため、上下賀茂社石清水八幡宮行幸され、攘夷の気運が高まるなか、将軍・家茂は五月十日を攘夷の期限として上奏し、長州藩はまさにその日に下関で外国船を砲撃した。国司信濃は久坂らとともにこの「攘夷」を主導し、下関防備総奉行に任じられている。京の主役となった攘夷派は、さらに天皇の大和行幸・攘夷親征を建議しました。八月十三日に詔(みことのり)が出されたが、会津・薩摩両藩を中心とする幕府勢力が八・一八の政変といわれるクーデターを決行、長州尊攘派三条実美(さねとみ)らの尊攘派公家とともに山口へ撤退「七卿落ち」。政変後の長州では、京都出兵を主張する来島又兵衛(きじままたべえ)らの進発論を、慎重派がかろうじて抑えていたのです。しかし、京に残された尊攘激派30名も斬殺・捕縛された池田屋事件に激昂し、福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老が率いる出兵が決定した。元治元年(一八六四)六月、福原隊は伏見へ、海路をとった信濃隊は嵯峨に、益田隊は天王山に、さらに久坂の忠勇隊が天王山に陣を張りました。土佐の中岡慎太郎など京に潜伏中の浪士らも加わり、総勢2600名。目的は戦闘ではなく威圧による尊攘派の復権だったが、嘆願書の返事も得られないまま一橋慶喜から撤退命令が出された。この間に薩摩や会津など諸藩の軍勢が入京、幕府軍は一万人を超えた。状況は明らかに長州に不利だったが、七月十九日未明、「甲子の戦争」あるいは「禁門の変」「蛤御門の変」と呼ばれる戦闘が始まったのです。下立売御門・中立売御門・蛤御門の三方向から攻めた国司信濃隊のうち、来島隊が会津の守る蛤御門に殺到、一時は占拠する勢いだったが、乾門から薩摩の西郷隆盛軍が駆けつけて戦況は一変、来島は銃弾に倒れました。総崩れとなった信濃隊は寺町御門方面から天王山に退き、長州へ落ち延びた。久坂と真木は自決、福原・益田隊も逃げ帰り、長州軍の惨敗となったのです。