歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

益田親施と禁門の変

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益田親施(ますだちかのぶ)長州藩永代家老・益田元宣の3男として1802年に生まれました。益田親施の益田家は、もともと毛利元就に仕えた家老で、周布政之助も一族であります。父・益田元宣は村田清風と共に藩政改革に当たり、明倫館の拡大移転も総奉行として活躍していました。そんな父が1849年3月に死去すると、兄・益田親興も既に他界していた為、亡くなっていたため、須佐領12063石の家督を継ぎます。この年、山鹿流兵学者である吉田松陰に入門もしています。 1853年、ペリー提督の黒船来航となると、徳川幕府より長州藩が相模防衛を命じられ、12月に相模国浦賀警備惣奉行の役を授かり、1854年2月江戸に到着します。3月には加判役を兼務している。 1855年4月、長州に戻ると、1856年4月に国元当職(国家老)となり、藩政改革に尽力する。ハリスとの通商条約締結問題となると、1858年、周布政之助らと徳川幕府に攘夷を決行するべきだと建白します。「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という長州藩の三大原則を唱えました。1863年7月に上洛すると孝明天皇に真木保臣らと攘夷親征を提言し、大和行幸の勅を引き出しました。しかし、中川宮・薩摩藩会津藩の抵抗にあい、八月十八日の政変となり、 そして、益田親施(益田兼施)は7人の公卿と共に長州に帰国しました。その後、長州藩復権の為、福原元僴、国司親相(国司信濃)ら3家老の1人として、久坂玄瑞来島又兵衛国司親相らと京に兵を送ると、総大将として指揮しました。禁門の変では、久坂玄瑞と共に山崎天王山に布陣したが、薩摩藩会津藩らに敗れ、天王山で殿を務めた後、負傷者を駕篭で送るなどして長州に帰国しています。御所に向かって発砲したことで、長州藩は朝敵となり、責任を取る形で所領・阿武郡須佐にて謹慎しました。そして、第一次長州征伐となると、政権は恭順派(保守派)椋梨藤太らに握られ、8幕府軍より3家老は責任を問われる事となり、徳山藩に身柄を預けられます。その後、筆頭家老・益田親施と家老・福原越後、家老。国司信濃の3家老の死を持って幕府と和睦することとなり、惣持院にて切腹しました。この時、三家老を奪い取ろうとする動きがあったため、1864年11月12日の処刑の予定が早まり、前日11日夜に自刃を命じられています。(享年32歳)