歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

大和魂の発揮とは

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大和魂の発揮=日本人特有の思考と行動の発現」

大和魂の発露=日本人特有の思考と行動の表れ」

大和魂の意味=日本人特有の思考と行動の本意」

初めまして有狂と申します。私は歴史好きで、いろいろな歴史書を読んでおります。特に戦争ものなどを見ると先人の大和魂が発揮される場面に多く出会うことができました。そのような中で、たくさんのエピソードを戦後70年の2015年を機に先人たちの偉業をご紹介して、本来の日本人の姿を「後世に伝えられたら」と考え、ブログを立ち上げた次第でございます。今年の大河にもなりました吉田松陰先生のエピソードをご紹介いたします。「間部詮勝要撃計画」を自白した吉田松陰先生は安政6年(1859年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれました。その時の年齢は30歳という若さでありました。死に際しても平静かつ潔い姿に、首切り役の山田浅右衛門などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧しました。「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもにいちゆうし、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」維新の先駆者となり、その死を持って門下生達へと強烈に引き継がれた松陰の想いと志は、後の世で大きく花開くこととなります。

 

大和魂とは(ウィキペディア参照)

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*1:大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあった。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することである。『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。

江戸時代中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになり、「もののあわれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていった。宣長は「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ事でも知られる。 江戸後期になると国学者によって、大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されるようになった。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなった。

明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。戦後は「大和魂」という語の使用が忌避されるようになり、本来的な意味に着目されることも少なくなった