歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

大高又次郎と池田屋事件

安政5年(1858年)に大高又次郎は脱藩し上京、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰先生門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいました。安政6年には萩へ赴き吉田松陰先生とも会談を行っております。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄っ…

池田屋事件と土佐藩の北添佶摩

北添佶摩(キタゾエキツマ)は、商家の出身で19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となります。開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学びます。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共…

桂小五郎(木戸孝允)と池田屋事件

池田屋事件では池田屋へ一番早く行ったが、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行っており、小五郎は運良く難を逃れたと言われております。新選組が池田屋を襲撃したのは、対馬藩邸に行っている間に起こったのです。池田屋事件の発端となった…

熊本の尊皇攘夷派、宮部鼎蔵と池田屋事件

宮部鼎蔵は1820年4月、肥後国益城郡田代村で、春吾の長男として生まれました。代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいます。家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就き、山鹿流軍学を学んだのです。その後、兵学師範で…

松陰門下の四天王、吉田稔麿と池田屋事件

吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀とゆわれたほどの人物です。吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれます。松陰先生主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き…

古高俊太郎と池田屋事件

池田屋事件とは、幕末の元治元年 6 月 5 日(1864 年 7 月 8 日)に、京都三条木屋町の旅館・池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件です。池田屋騒動とも言われております。幕末の…

勤王商人・古高俊太郎と福寿院

滋賀の福寿院には、幕末の志士・古高俊太郎の大きな顕彰碑がございます。池田屋事件(1864)にかかわったことで有名な古高俊太郎は、福寿院の住所でもわかるとおり(滋賀県守山市古高町158)古くから地元の名族名士の古高一族の出身で、激動する時代の中、尊皇…

勤王商人、白石正一郎

下関竹崎で荷受問屋を営み、清末藩御用達を勤めた白石正一郎です。正一郎は、近世に港湾都市として栄えた下関において、大きな経済効果を生む諸国の廻船交易に参入できない新興商人でした。そのため、藩内外の交易相手に機敏に対応し、商利を求めて積極的に…

吉田松陰先生の三余説

松陰先生が下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても兄の梅太郎の協力があってこそのことであります。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛…

ペリリュー島の戦いと大和魂

この小さな島でくりひろげられた戦闘は、これまでの島にまさる壮絶さだったのです。オレンジ・ビーチ、この海岸は1944年9月15日に始まった米軍のペリリュー島への最初の上陸地点でした。米軍は、既に制空制海権を抑えており、その上陸前に相当の爆撃をこの島…

陽明学と吉田松陰先生

松蔭先生は軍学、兵学ばかりでなく、国学、儒学、史学も学んでいますが、特に儒学の一種の陽明学を深く学んでいたのです。この陽明学にある教えに知行合一がありますが、それは実践重視主義を重視し、説明すると「思想は行動が共なってこそ完成する。言行一…