歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

益田親施と禁門の変

益田親施(ますだちかのぶ)は長州藩永代家老・益田元宣の3男として1802年に生まれました。益田親施の益田家は、もともと毛利元就に仕えた家老で、周布政之助も一族であります。父・益田元宣は村田清風と共に藩政改革に当たり、明倫館の拡大移転も総奉行として…

国司信濃と禁門の変(蛤御門の変)

長州藩家老・国司親相(国司信濃)寄組・高洲元忠の次男として誕生し、同じ寄組の国司家(五六〇〇石)の養嗣子となり、五歳で家督を継ぎました。国司家は毛利元就の嫡男・隆元の傅役を務めた元相に遡る重臣の家系です。寄組の中でも最上位の名家であることに…

来島又兵衛と禁門の変(蛤御門の変)

来島又兵衛は長門国厚狭郡西高泊村の長州藩・無給通組の次男として生まれました。若い頃より文武に長け血気盛んだったようで、大津郡俵山村の大組上士・長門来島家の来島又兵衛政常の跡取りとして婿養子となりました。1841年、九州・柳川藩に赴くと、大石神…

真木和泉と禁門の変(蛤御門の変)

文化10年(1813)3月7日、筑後国久留米城下瀬下町にある水天宮神官真木左門旋臣(としおみ)の家では待望の男の子が呱々の声をあげた。幕末維新の志士たちの多くがまだこの世に生まれ出ていなかった。真木和泉を中心に数えれば、横井小楠4歳、佐久…

久坂玄瑞と禁門の変(蛤御門の変)

1863年8月18日の八月十八日の政変で長州勢が朝廷より一掃されたが、久坂玄瑞は京都詰の政務座役として在京して失地回復を図ったが、一方で薩摩藩は会津藩と手を組み、長州藩は苦境に立たされていきます。三条実美・真木和泉・来島又兵衛らの唱える「武力をも…

禁門の変(蛤御門の変)

蛤御門の変とも言う。この門は「新在家御門」と言われ開かずの扉であったが、1788年の天明の大火で御所が炎上した折、初めて開門された。この為、禁門が「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門(俗称)と呼ばれるようになった。1864年に尊王攘夷派(長州藩)と…

池田屋事件とは、、

新選組は尊攘激派浪士の京都市中焼討ちというテロ計画の情報を得て、急いでパトロールを始めたら浪士たちの池田屋における集会を発見し、闘争におよんだというのが定説になっています。浪士たちが池田屋に集ったのは、古高俊太郎が逮捕されたのを知って、そ…

池田屋事件の生還者、有吉熊次郎

有吉熊次郎は、長州藩士、尊皇攘夷派の志士で熊次郎は通称で、諱は良明、本姓は藤原氏を称し、墓碑の刻字には藤原良明とあります。贈正五位で、作家有吉佐和子の曾祖父にあたります。天保13年(1842年)に長州藩士有吉忠助の次男として生まれます。藩校の明…

殺された池田屋の主人

文政6年(1823年)に生まれ、出身地は長州といわれているが不明であります。その後、京都三条通りの三条小橋西4軒目の北側に旅籠・池田屋を開業し、長州藩士の定宿となります。元治元年(1864年)6月5日の夜に起こった、池田屋事件では、御用改めに入った新…