歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

2015-03-01から1ヶ月間の記事一覧

七生報国と広瀬武夫

湊川の戦いで正成軍は、1336年5月僅かな手勢を率いて蓮池で16回をも攻撃を行い、10倍以上の軍勢を須磨まで押し戻しました。そして尊氏の本陣にも攻め込んだのです。しかし、尊氏軍の前にあえなく全滅し、一族郎党とともに自刃して果てるが、このとき…

幕末志士と湊川神社

楠木正成公は延元元年(1336)5月25日 、正成公は「湊川の合戦」で足利軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、多勢に無勢で味方はわずか73人に減ってしまいます。もはやこれまでと覚悟した正成はこの地にあった民家に入り、「七生報国」を誓つて弟の正季と…

楠木正行とゆかりの地

楠木正行は、南北朝時代の武将で、楠木正成の嫡男です。「大楠公」と正成に対して「小楠公」と呼ばれます。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦いました。 【正行ゆかりの地】四條畷の合戦で討ち死にし、小楠公墓所にねむる楠正行ゆかりの地を訪れ、正行の生きざま…

非理法権天と楠木正成

江戸時代の『貞丈家訓』(伊勢貞丈)という文献には、「非理法権天」の言葉の解釈として、「無理は道理に劣位し、道理は法式に劣位し、法式は権威に劣位し、権威は天道に劣位する」と記述されています。つまり、「非」とは、道理の通らぬことを指し「理」と…

楠木正成と大和魂

歴史の中で楠木正成は大和魂を語るうえで代表的な武士となります。1294年河内の千早赤阪村にある水分で生誕したとゆわれております。正成が生まれたこと、140年あまり続いた鎌倉幕府は衰え、秩序が乱れていました。その中で、政治を武士から天皇に戻す気運が…

徳川斉昭と偕楽園

徳川斉昭と偕楽園 幕末の水戸藩主・勤王家。烈公とも呼ばれており、徹底した尊王でありました。まさに大和魂を体現し、その思想を水戸から広める重要な人物だとおもいます。徳川斉昭は改革派の人材を登用し、自分の擁立に功があった下士層から藤田東湖、武田…

藤田小四郎と天狗党の乱

江戸末期の水戸藩士。東湖の四男。名は信、字は子立、小四郎は通称です。幼少より父東湖に水戸学を学び、詩文にも長じました。文久3年には長州藩の桂小五郎らと東西呼応しての挙兵をはかったが果たせませんでした。そこで元治元年3月、同志を募り、筑波山に…

武田耕雲斎と天狗党の乱

幕末尊攘派の水戸藩士の跡部正続の長子として生まれ、本家を継いだのち跡部の旧姓武田を名乗ります。名は正生(まさなり)で耕雲斎は号となります。9代藩主徳川斉昭の藩政改革の尽力した改革派の重臣です。元治元年3月、藤田小四郎らが筑波山の挙兵したとき…

天狗党の乱

幕末、外国からの圧力が強まる中、「攘夷」の実行を幕府に迫るために決起した者たちがいました。 水戸藩浪人たちを主とする一団で藤田小四郎(藤田東湖の四男)を中心に62人で決起いたします。武田耕雲斎なども合流し首領として指揮を執ります。元治元年(186…

吉田松陰先生と水戸学

幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学発祥の地の水戸で弘道館初代教授頭取を務めた会沢正志斎が書いた新論は、吉田松陰にも大きな影響を与えました。22歳の松陰先生が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月から翌年1月にかけてであります。…

尊王攘夷運動

国家存在の根拠としての尊王思想と侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。「王を尊び、夷を攘う」の意味となり、古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄を打ち払うという意味です。覇者が用いた標語を日本の国学者…

大日本史

大日本史とは水戸藩2代藩主・徳川光圀の命により編纂された歴史書となります。1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いたのと多額の費用を要した日本の歴史の上で類まれだ大事業だったの…

桜田門外の変

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」であります。 この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習し…

歴史とは何か

「歴史とは現在と過去との対話である」 大和魂を探るうえで歴史のとらえ方について考えて見たいと思います。 上の言葉を残したドワード・ハレット・カー(1892~1982)はこのように考察しております。それは、歴史というものは「特定の主観」を排した客観的…

大和魂とは

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではな…

弘道館

水戸学の思想と教育、天保三年、九代水戸藩主・徳川斉昭のすすめた天保の改革のなかでも目玉の事業であった弘道館が誕生し学校」の出現でありました。明倫堂が一万七八〇〇坪、幕府の学校・昌平贅にしても一万一六〇〇坪でしかない。「三千載(年)未だで嘗…

会沢正志斎と新論

会沢正志斎は日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者 藤田東湖と並び水戸学の代表的思想家で、父親は会沢恭敬、母は根本重政の娘となります。藤田幽谷の青藍舎へ入門いたします。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を書きました。…

藤田東湖と水戸学

水戸藩の学者藤田幽谷の二男として生まれ,父は青藍舎という塾を開いており、幼いころから学問に興味を持ちながら成長。14歳の時,父に従って江戸の地を踏むと武道にもめざめ、神道無念流の岡田十松に入門しました。19歳の時,イギリスの捕鯨船員12人…

藤田幽谷と水戸学

水戸学は国学と共に近世ナショナリズムの源泉であり、幕末、尊王懐夷思想の根拠になりました。水戸学が生まれたのは、水戸藩の第2代藩主徳川光圀が中国の「史記」を範とする日本史を構想して多くの学者を招聰し、彰考館を創設して編纂事業を始めたことによ…

水戸学

水戸学とは前期水戸学、後期水戸学と分かれます。 前期は光圀公をはじめとする大日本史を編纂した儒学者たちが中心となり、後期水戸学は徳川斉彬公や藤田幽谷をはじめとする門人達でありました。そして烈公(斉彬公)と共に、その道を切り拓き、歩んだのは、…

辻政信とガダルカナルの戦い

ガダルカナル島の戦いでも実情を無視した攻撃を強行した作戦参謀。 辻の責任であるとする説によると、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた…

ガダルカナルの戦いの総括

11月中旬頃までガダルカナル島の争奪をめぐり日本軍とアメリカ軍は必死の戦いを続けた。結局、アメリカ軍は、マタニカウ川西岸高地まで橋頭堡を拡大し、そしてこの橋頭堡に武器・弾薬、兵站物資等を継続して補給し、常に日本軍に勝る戦力を維持し続けた。日…

第2師団

10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第2師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場占領することであった。なお、川口支隊の輸送時にネック…

川口支隊

第 17 軍司令官は、8月19 日、歩兵第 35 旅団長川口清健少将に、自今、川口支隊(第35 旅団司令部及び歩兵第 124 聯隊基幹)となり、海軍と協同して速やかにガダルカナル島を確保することを命令した。この頃まだ大本営は、ガダルカナル島陸上兵力は 2 ~ 300…

一木支隊

百武晴吉陸軍中将指揮の第17軍は、より重要な目標であるポートモレスビーの攻撃前に、ガダルカナルとツラギを奪回するように命じられたのである。第17軍は5万人の編成だったが命令がでたとき、軍の兵力はひろく分散していた。第2師団はジャワとフィリピンに…