歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

2015-07-01から1ヶ月間の記事一覧

竹永事件

竹永事件とは大東亜戦争のニューギニア戦線で日本軍の師団の一部が集団で、オーストラリア軍に投降した珍しい事件です。1945年(昭和20年)3月から4月頃、日本陸軍第41師団歩兵第239連隊は、東部ニューギニア北岸アイタペ南東内陸のトリセリー山脈南側で、追…

ポートモレスビー侵攻作戦(オーエンスタンレー山脈越え)

パプアニューギニア本島の珊瑚海側にあるポートモレスビーは文字通り天然の良港です。これは沖合に一直線に伸びた環礁の一部があり、これが見事な防波堤の役割をしており、内海は水深 50m 位で、うねりは全く入ってこなく大艦隊が停泊可能ですから海軍が着目…

ダンピールの悲劇

前線基地ラバウルのあるニューブリテン島と、ニューギニア島の間にはダンピール海峡と呼ばれる海峡があります。昭和18年初旬、日本軍はラエで壊滅的な打撃を受けていたが、体勢の建て直しをはかって、第51師団の残る7千名を8隻の輸送船でラエ地区に上陸させ…

第二次長州征伐

幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。幕府は蛤御門(はまぐりごもん)の変を理由に、元治元年(1864)長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵します。のち、長州藩首脳のこの処置に不…

第一次長州征伐

第一次長州征伐とは、禁門の変の処分のために幕府が長州に対し成敗するための軍事行動です。単独での外国船砲撃など過激で急進的な攘夷活動が目立っていた長州藩でしたが、朝廷への影響力も強まってきておりました。そのカウンターとして薩摩藩、会津藩は朝…

会津藩、新撰組の禁門の変(蛤御門の変)

一橋慶喜が禁裏御守衛総督、桑名藩主の松平定敬は京都所司代に就任し、会津藩で兄弟である松平容保と次第に連携を深めていきます。この連立権力は、頭文字をとって一会桑の権力と呼ばれています。会津藩は、そのなかで軍事面の中核を担いました。1863年…

高杉晋作と禁門の変(蛤御門の変)

京都では「八・一八の政変」が起こりました。 これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。 一つは遊撃隊の総督を務めていた来島…

西郷隆盛と禁門の変(蛤御門の変)

元冶元(1864)年2月28日、西郷は沖永良部島に幽閉されてから約1年8ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。そして、西郷は席の暖まる暇もなく京へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」を任命。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、この時以降に西郷の縦…

桂小五郎と禁門の変(蛤御門の変)

桂小五郎はご存じ後の木戸孝允です。長州藩の上士出身で家格も高く吉田松陰先生とも懇意にしておりました。禁門の変の前後の動向として、1864年の池田屋事件では、桂小五郎の到着が早すぎた為に本拠地にもどった間に事件が起こり難を逃れたとも、居合わせた…

入江九一と禁門の変(蛤御門の変)

入江九一(いりえ くいち)は長州藩の足軽・入江嘉伝次の子供として、1837年、長州で生まれました。家が貧しかったため、13歳で働いて家計を支えながら学問に励んだと言われております。1854年に父が亡くなると、自分1人で家計を支える事となった為、入塾が遅…

寺島忠三郎と禁門の変(蛤御門の変)

今回取り上げるのは寺島忠三郎です。長州藩で生まれました。無給通組・寺島直一の次男となります。1858年、16歳の時から長州藩の藩校・明倫館にて学んだのち、吉田松陰の松下村塾にも入門し、高杉晋作や久坂玄瑞らとともに学びました。寺島忠三郎は兵学を好…