歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

一木支隊

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百武晴吉陸軍中将指揮の第17軍は、より重要な目標であるポートモレスビーの攻撃前に、ガダルカナルとツラギを奪回するように命じられたのである。
第17軍は5万人の編成だったが命令がでたとき、軍の兵力はひろく分散していた。第2師団はジャワとフィリピンに、その他の部隊はニューギュア、満州、オランダ領東インド諸島、グアム島などにいた。
百武中将は兵力の不足など気にしていなかった。精鋭な戦闘部隊が一つあれば、ソロモン諸島から米軍を撃退できると確信していた。
そこでグアム島にいる一木清直大佐の歩兵第28連隊(旭川第7師団)だけをこの任務にあたらせ、第17軍ののこりの部隊は集結して、ニューギュアを席巻することにした。
一木大佐は歴戦の勇士であり、中国での戦闘で武勲をたてた。一木連隊長にとっては突然の命令であったが、1942年8月の時点では、ガダルカナル奪回には最適任であるとみられた。
一木支隊と名づけられたこの部隊にたいする軍命令は「速やかにガダルカナルの飛行場を奪回して確保せよ。奪回不成功のばあいにはガタルカナルの一部を占領し、後続部隊の到着をまて」というものだった。
一木大佐は、先遣隊の900人とともに6隻の駆逐艦に分乗し、8月18日夜半すぎ、米軍陣地から30キロほどはなれたタイブ岬に上陸した。支隊の残余2500人は、一週間以内に到着する予定であった。

午前2時40分、攻撃の火ぶたが切っておとされた。日本軍のガダルカナル奪回をはかる大作戦が開始されたのだ。一木大佐は部隊をイル川の東側、砂州にむかいあうジャングルのなかに集結させた。
まず迫撃砲が対岸の米軍に撃ちこまれ、軽機関銃が一斉射撃をはじめた。つづいて一木大佐は500人をひきいて砂州をこえて、突撃を敢行した。

一木支隊の銃剣突撃が開始されたのは、8月21日の午前3時ころからとされている。イル川河口の通称「アリゲータークリーク」と呼ぶ沼と河口を、次々と日本兵が突撃した。
「電流鉄条網があるから、突撃は無理だと曹長から連絡が来たんだ。それで破壊筒というのを俺の分隊15人でもって、鉄条網に突撃したのさ。イル川を胸までつかって、渡ってな。事前に深さを測ったから、大丈夫さ。ワニよりな、サメの方が怖いんだ。
敵の曳光弾が、ものすごい数でとんできてな。曳光弾なんて、初めて見たさ。俺たちは、占領するまで撃ってはいかんことになっていたんだ。だからな、一発も撃たなかったんだ。とにかく、鉄条網にたどり着いたんだ。
その鉄条網の200メートルくらい先に米軍陣地があって機関銃をうってくるんだ。俺たちはそこで立ち往生さ。そこで振り返ったら後ろに14人いたはずなのに、2人しか残って居ないんだ。他の奴等は、みんな死んだんだよ。
大切な信管を持った奴も、居ないんだ。破壊筒なんて、信管がないと爆発しないんだ。そしたらな、手りゅう弾みたいなものが爆発したんだ。俺の太ももの裏が、えぐれたんだ」

生き残った部下2名と3人で後方に下がりはじめたが、すぐに夜が明けた。「三人で海の中にはいってな、隠れていたんだ」
午後1時ころから、米海兵隊は水陸両用戦車4台を出動させた。火炎放射機を備え、生き残った日本兵を蹂躙した。

「俺たちは、壊れて放置されていた米軍の車両の中に入って隠れて見ていたんだ。兵隊たちがな、アリみたいに戦車に踏みつぶされていくんだ。暗くなってから、3人でタイボ岬目指してビッコ引きながら向かったんだ。
部下の旭川の菅原はな、尻の肉がなくなってるんだ。なかなか歩けないから殺してくれって言うんだけどな、棒でたたいてせっついて進んだんだ。だけどな、途中で体が冷たくなってきたんだ。仕方なく、自決用の手りゅう弾を渡して、川べりに残してきたんだよ」
こうして米軍の十字砲火を浴び、この日第一梯団911名のうち実に777名が戦死した。生き残っていた134名のうちの約30名は、上陸地点に残されていたものである。
一木隊長も、自決する。一木隊長の死については諸説があるが、単独で突撃した説が現在有力と考えられる。

「総攻撃の時、各小隊ひとりずつ残されたんです。残った荷物を三人一組で折たたみ式舟艇に乗せて、イル川に乗り入れて運ぶことになったんです(小笠原挺身隊と呼ぶ)。
合計9名で三隻の舟艇を漕いで、真っ暗闇の海岸沿いの海を進みました。すると、前日全滅した斥候隊の生き残り兵が助けを求めて来ました」

ボートを中川(イル川 アリゲータークリーク)に乗り入れようとすると、干潮にもぶつかりなかなかうまくいかない。(状況を考えると、イル川手前のテナル川の可能性が高い)
「すると、米軍が撃ってきたんです。曳光弾です。そのうち、兵隊たちが戻ってきました。かろうじて生き残った連中です。一木隊長は、連隊旗を焼き割腹したそうだ。
連隊旗の菊の御紋の部分は誰かに預けたらしいが、紛失してしまったらしいと言うのです。夜明けも近づいてきたんで、後退することになりました」