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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

会沢正志斎と新論

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会沢正志斎は日本の武士・江戸末期の水戸藩儒者


藤田東湖と並び水戸学の代表的思想家で、父親は会沢恭敬、母は根本重政の娘となります。藤田幽谷の青藍舎へ入門いたします。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を書きました。
享和3年(1803年)に藩校の彰考館に入門し、徳川斉昭に近侍しました。
文政8年(1825年)には遭難したイギリス船員と会見し、海外情報を聞き記した『新論』を表すが、内容が過激であるという理由で発禁処分となりました。
その後、幽谷が死去し、彰考館の総裁となる。文政12年(1829年)、斉昭を水戸藩主に擁立する運動に参加し、斉昭から取り立てられました。
藤田東湖や武田耕雲斎らと共に藩政改革を補佐し、郡奉行などを歴任しております。その後、弘道館の初代教授頭取に任じられ水戸学発展に貢献いたしました。
安政5年(1858年)、幕府の条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下る。会沢は密勅返納を主張し、藩内の尊皇攘夷派と対立します。
斉昭が安政の大獄で永蟄居処分となると藩内は分裂し、正志斎はその両派の収拾に努めました。文久2年(1862年)には一橋慶喜徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』を提出いたします。
正志斎は神道と水戸学を合わせて大義名分論を唱えた人物として有名でありますが、彼は著作や尊皇攘夷運動を通じて長州藩吉田松陰らに影響を与えた精神的指導者でもありました。

『新論』

江戸幕府の力が揺らいだ幕末期に、天皇・朝廷を厚く敬う尊王論と日本周辺に姿を現すことが多くなった西洋諸国の勢力を排除しようとする攘夷論が結びついた 尊王攘夷の思想を体系化した書物であった。
国家の行く末を案じて活動した吉田松陰などの志士達を中心に広く流布し、水戸に発達した学風である水戸学の書物としても伝わった。
現存の版本も多いが慶應所蔵本の魅力は松平慶永(1828~90)の自筆書入れがなされている点である。
越前福井藩主であった松平慶永は,、隠居後の「春嶽」の名で広く知られ,当時の名君の一人として,幕末政治史を語る上では欠くことができない人物である。
『新論』は文政8 年(1825)会沢正志斎が主君徳川斉脩に対して意見を呈上するために執筆したものであった。
国体(上・中・下)・形勢・虜情・守禦・長計の7 編からなり、国の内外における政治的な危機を乗り越え富国強兵を実現するためには、人々の心をまとめる方法として尊王と攘夷が必要であると強く主張した。
だがその内容により公刊は許されず同志の間で筆写されて密かに世間に流布したのであった。入手が難しいことは却って本の魅力を高めた。