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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

吉田松陰先生と勤王僧、月性

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松陰先生は月性より13歳若く、松陰が幼子のころから月性は、杉家と親交を交え、特に松陰の兄梅太郎とはたいへん仲の良い間柄でした。月性と松陰先生は、詩文の批評を交換し時事を論じるなどの書簡の往復を始めたことから関係が深まります。その始まりは松陰先生が野山獄中から出した月性宛ての手紙であるとされています。その内容は、月性の討幕論に対し、公武合体論的立場をとる松陰にとって、討幕は不可であることを説いたものでありました。これは月性が萩藩主への建白書「封事草稿」に対する反論であり、松陰先生はこの「封事草稿」をかなり早い時期で読む機会があったとされています。月性は松陰の兄梅太郎と親しく、出萩の際は、杉家に泊まることもあったことから、兄を通じて松陰にもたらされ、その月性の討幕論に対して、諫幕論であった松陰が反論した書状を送ったことが、2人が書簡を交わした始まりであったようです。そして、安政2年春からの月性との出会いが、その後の松陰の思想形成を築き上げ、尊王討幕論者へと転換させたことは疑問の余地もないとされています。
松陰は、松下村塾の主催において月性を萩に招き、時局講演会のようなことを開催していました。月性は、海防僧ともいわれるほど、海の守りの重要性を説き、あわせて勤王思想を重んじる僧侶で、松陰が尊敬する人物のひとりでありました。また、月性も松陰の卓越した才能を認め、清狂草堂の弟子たちを松陰のもとで学ばせています。亡き兄玄機の親友であった月性に教えを受けていた久坂玄瑞は、月性の強い勧めにより松下村塾に入門を果たしています。続けて、清狂草堂で学ぶ赤根武人や土屋恭平、富樫文周などが入門しています。これら塾生を松下村塾に送り込む以前に、月性と松陰2人が相まみえていたことは間違いないとされています。また月性は、藩内全域で講演を行っていたことから、他塾とも交流を深めていました。各地での月性の講演活動は、松下村塾と他塾との交流にも役立ち、その幅広い人脈は、多くの若者を松下村塾に送り込む結果となりました。このようなことからもわかるとおり、早くから松下村塾時習館(清狂草堂)とは同盟関係にあったと言われています。安政5年となり、松陰は日米修好通商条約が日本をアメリカの植民地にするものだと反対し、もし日本国全体がアメリカの属国となっても、防長二国だけは独立して盛り返そうと説きます。松陰は、この意見を藩政府の要職へ伝え、松下村塾を拠点に尊皇攘夷の政治工作を始めますが、政府の要職にあって活躍している人物が多い嚶鳴社は、このことに反対、松下村塾と対立します。時局多難な際に、藩内にこうした対立があることを憂えた松陰は、その仲裁を請う書簡を両方に親しい月性に送ります。それを受けた月性は、安政5年2月に萩を訪れ、中谷正亮・高杉晋作松下村塾の塾生と松陰に面談、松陰は月性に対して、両者が親しく意見交換ができるよう改めて依頼し、月性はそれに応える形で、両者は和解に至りました。無事調停を終え、3月1日、月性が家郷に帰るに際し、松陰は「清狂師の郷に帰るを送る序」を贈っています。 この書簡は、月性の討幕論に対して規諫論でもって答えています。そこでは、いま天皇に頼んで幕府を討つなど不可能なことだし、それよりも大敵は外国である。したがって、今は国内で争いを起こす時ではなく、幕府を規諫して、朝廷・幕府・諸藩が一体となって日本国の強化を図るべきという主張がなされていました。

 

[釈月性]清狂

将東遊題壁

男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨豈期墳墓地
人間到處有青山
将(まさ)に東遊せんとして壁に題す
男児 志を立てて郷関を出づ
学 若し成る無くんば復た還らず
骨を埋める 豈墳墓の地を期せんや
人間 到る処青山あり

 

[現代語訳]

男児たるもの、いったん志を立てて郷里を離れるからには
学問が大成しない限り二度と戻らない覚悟である。

ちゃんとした墓地に埋葬されようなどという考えはとうに捨てている。
どんな場所で野垂れ死のうと、本望である。