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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

 今昔物語と大和魂

 

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『今昔物語』で、善澄という学問のある人の話で、この人の家に強盗団がやってきた。善澄は縁の下でじっと息をひそめていた。強盗団が物を奪って家を出て行ったとき、彼は腹立ち紛れに、「お前らの顔は見た。検非違使に訴えてやる」と、怒鳴った。すると強盗団はで「見たな!」ってことで引返してきた。彼は大慌てでまた縁の下に隠れようとするが、頭を打ったなどして逃げ遅れ、強盗団に捕まって殺されてしまう。「善澄の才はめでたかりけれども、つゆ和魂(やまとだましひ)なかりける者にて、この心幼き事を云て死ぬる也とぞ、聞く人に云ひ謗られける云々」つまり、学才はあるが思慮分別がないということです。

大和魂と大鏡

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大鏡』では藤原時平(871~909)に対して、〈かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを〉とあります。藤原時平が、大和魂を持つ人物として評価されています。

 

大鏡

平安時代後期の歴史物語。作者未詳。6巻。ただし増補改修が加えられた流布本は通常8巻,古本系統本は通常3巻。 12世紀に入っての成立か。文徳天皇から後一条天皇まで 14代 176年の歴史を列伝体で物語風に叙述し評論している。

語源で探る大和魂

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日本民族の精神を象徴する言葉として大和魂とは、『源氏物語-乙女巻』に「なほ才を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強う侍(はべ)らめ、さし当たりては、心もとなき様に侍りとも、終の世の重しと成るべき」と記述が出て参ります。また『大鏡』に「弓矢の本末をも知りたまはねば、いかがとおぼしけれど、大和心かしなくおはする人にて」とあり、当時は大和魂や大和心とは、事、明るく常識に長けた、もののことを言ったのであります。近世になると、その意義が変化し、忠勇節義を尊ぶ武士道的な日本精神を象徴するようになり、江戸時代の国学者本居宣長も「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」と詠じ、日本精神の崇高な姿を山桜に比し、また村田清風は「敷島の大和心を人問はば蒙古の使ひ切りし時宗」と言ったような剛勇果断よく国難に際して、外冦を退けた北条時宗を大和心の象徴としております。幕末期の長州の吉田松陰は、「かくすればかくなるものと知りながら已むにやまれぬ大和魂」と詠じて、武士道の有り方、公の為、日本の為、国体の為、死地に赴くことも厭わない、殉国の精神を謳歌するにいたったのです。
 

源氏物語と日本人

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源氏物語がいつごろ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのか、それを明らかにする資料はないものの、1008年には冊子作りが行われていたそうです。約100万文字、22万文節、400字詰め原稿用紙で約2400枚という大作で、日本においても海外においても、「世界最古の長編小説」と評価される事が多い作品です。今から1000年以上前の長保3年(1001年)には、ある程度完成したと言われる小説です。作者は紫式部、全54帖に及び、文字数は約100万(400字詰め原稿用紙で約2400枚)の大長編です。70年間にも渡るストーリーには、約500名の人物と約800首の和歌が登場します。最近では、英語や、イタリア語、チェコ語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、韓国語、中国語、ロシア語などに翻訳され、世界中の人々に愛読されています。

紫式部と大和魂

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遣隋使や遣唐使によって日本に中国伝来の漢学の知識が流入したのであるが彼女はそれを「才」と称しこれまでの日本にあった精神=日本人としての知恵を「大和魂」とよびました。そして「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ」すなわち漢学の知識を手段として、日本の智恵を世の中に役立たせるのだと光源氏に言わせているのであります。紫式部の価値観として日本の智恵の実現が上位の目的であり漢学や知識は、そのための手段だと下位に位置づけているわけです。すなわち漢文も大和言葉も使いこなせるバイリンガルキャリアーウーマンとしては長い歴史を誇る日本文化を重要視し中国伝来の知識は、日本精神文化を実現するための用いるべき手段にすぎないとまで、言い切っているのであります。ではこの大和魂とは何か?それは日本語すなわち、当時会話などに使われていた大和言葉に他ならないと考えます。ここで大和言葉=日本語の起源は何かとさまざまな議論が現在になされているが、結論としては、日本語の起源は古すぎるため、確定できないとされています。いずれの議論においても、日本語はどこか他から流入したとの仮説を前提にしておりこれでは、解明できないのも当たり前といえそうです。アフリカ東海岸を出発点に世界中を放浪し、終着点の日本に到達した原始日本人がさまざまな言語を断片的に持ち込んだわけだが、それらが融合し醸造されて、日本独特の大和言葉が完成したものと思うのであります。

西郷隆盛と陽明学

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明治新政府樹立後、九州での萩など佐賀、そして神風連の乱が熊本で相次いで勃発しましたが、これ以外にも全国的に新政府に対する不満は日を追うごと増し、このまま続けば、いかに新政府といえども押さえられないような状態になるのは明らかな状況でした。城山で終焉した”西南の役”を境に武士の不満が完全に息を潜め、新政府は殖産興業の育成と軍備増強に注力することができたのも事実であります。西郷は、周りからは天敵と思われた大久保利通が主導する新政府の行く末をも案じたのは勿論のこと、まだ見ぬ日本の未来のために我が身を天に任せました。更に、西郷は早くから北方の脅威といつか必ず一戦交えることを予測し、そのためにいろいろと準備も整えています。朝鮮との間に信頼関係を築くこともその一つでした。彼の予想は死後27年目の日露戦争で現実のものとなりました。もし、西南の役がなければ政府軍は後の、日清、日露には勝利できていませんでした。西郷が35歳の時(1862)、薩摩の沖永良部島へ流罪となりますが、1年6ケ月牢獄生活は、西郷にも、王陽明に突然雷が落ちたような衝撃を与え、己自信が宇宙と一体である悟りと同じような体験をさせます。王陽明西郷隆盛の体験は言葉では説明不可能ですが、西郷のこの体験が理解できなければ、どんなんに後世の書物が西郷のことを書こうと、西郷の実像に1ミリたりとも近づくことができません。このような理由から、歴史は今なお、西郷を、”不思議”、”大物” という言葉でしか表現できな いのです。西郷の沖永良部での体験は、一見人知を超えたもように聞こえますが、それは遠い昔に人類が忘れてしまった真実。即ち、宇宙の法則そのものが人間(として表現されている)であり、同時 に、これまで宇宙の法則を歴史が”神”と呼んできたことでした。この時、西郷は、人類がとんでもな い可能性を内に秘め、且つ、崇高な存在であることを知らされとても大きな衝撃を受け、多くの感激 の涙を流しました。陽明学は全てを一体として捉えます。特に殆どの経営者たちは、例外なく、日々の日常生活と企業経営は別物と考えますが、陽明学を基本とすれば、日常生活と事業経営の時間は共に一体であり、別々に分けられません。日常生活も経営もただの技術の一つなのです。また、陽明学西郷隆盛始め、大塩平八郎、吉田松蔭、更には、クリスチャンの内村鑑三や政界の指南役と呼ばれた安岡正篤らが学んだほか、幕末の志士たちにも人気があり、2.26事件などの政府転覆の機運が高まる時代には、不思議と陽明学を心の拠り所とする者が増えるなど、日本にも多大な影響を与えました。

日本人の起源(成立モデル)

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私たちは古代の歴史の流れの延長線上にいます。古代の歴史は私たちの過去の歴史であると同時に、未来への正しい道案内人でもあるのです。古代の歴史を正しく知ることは、未来を正しく生きるために必要な要素です。そして古代を正しく知るためには、さらにその過去、日本人の起源にまで遡って考えなければならないのであります。日本人とは本土日本人、アイヌ琉球人の総称であります。かつては日本人は単一民族だという考え方が主流であったが、現在では混血説が主流であり、またそうであろうと私は思います。近年「日本人の起源」についての研究は、人類学・考古学のほか遺伝学などの分野からのアプローチも多くみられ、最近ではDNAなどの遺伝子研究からその起源や系統がかなりの精度で推定できるようになってきました。そこでこういった最近の研究成果をもとに、日本人の生い立ちを通観してみることにいたします。

ゲノムから見る日本人の起源

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日本人のルーツ、ゲノム分析が進み、さらなる詳細が明らかに、、日本人の起源について、ゲノム分析が進み、これまで以上に複雑な混血モデルの詳細が明らかになってきました。「gwSNP」による解析 日本人のルーツに関する仮説が数多く提唱されてきました。主なものに小さな突然変異を起こしたと見る「小進化説」、民族の入れ替わりがあったと見る「置換説」、複数の人種が混ざったと見る「混血説」の3 つがあります。このうち最近では、混血モデルが広く採用されています。このモデルによると、狩猟民族である縄文人は、東南アジアに起源があり、1万年以上前に日本列島に住みつき、弥生人(2000年前~3000年前に東アジア大陸から移住してきた農耕民族)と混じったと考えられる。一方、縄文人と弥生人の形態学的違いは、生活様式の変化に伴う微細な進化で説明できるという説もあります。より複雑な日本人のルーツ

その結果、1塩基多型を複数の人種で調べた「ハップマップ(HapMap)」計画で調べられた漢民族系中国人(CHB)が弥生人と同じ祖先をもつと仮定した場合、混血モデルの可能性が濃厚であると想定できました。置換説や小進化説と比べると数十倍高い確率で予測されたのです。さらに研究グループによるデータから、縄文人の血統は、弥生人との混血が生じる以前から、多様な人口構造が存在したというモデルが出てきました。地域によっては、縄文人と弥生人のそれぞれが多様性を持っていたといいます。祖先の間の多様性は、更新世(約258万年前から約1万年前までの期間)後期にさかのぼり、完新世(1万年前~現代)の初期の縄文人の多様性へと続きます。この結果から、gwSNP解析によるデータで、日本人のルーツの複雑な混血モデルの詳細がさらに明らかになってきたのです。

日本人の身長の高さ(日本人の起源・番外編)

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2012年(平成24年)に行った調査によると、日本人男性の平均身長は167.3cm、平均体重は66.0kgだそうです。一方、日本人女性の平均身長は154.2cm、平均体重は53.0kg。周りを見渡してみてもだいたいそれくらいだろうなぁ、なんて感じる数値ですね。さらに20代に的をしぼると平均身長や平均体重はもっと変わってきます。20代男性の平均身長は170.9cm、平均体重は64.6kg。20代女性の平均身長は157.8cm、平均体重は51.6kg。男女ともに若者の身長は平均値よりも3cmほど高くなるようです。1950年(昭和25年)では男性の平均身長は161.5cm、平均体重は55.3kg。女性の平均身長は150.8cm、平均体重は50.7kg。昔にくらべだいぶ上回っています。なんでも日本人の平均身長は江戸時代の頃がもっとも低かったそうです。さらに食糧事情が悪かった時期を除けば、現在にいたるまで平均身長は伸び続けています。その原因は海外の食生活の文化が入ってきたことが理由としてあげられるそう。動物性のタンパク質を摂取する量が増えたことで、身長が伸びるようになったと言われています。

 

ちなみに縄文人の平均身長は成人男性で158センチメートルほど、女性は145センチメートル程度しかなく、今の中学生ほどの身長です。おおむね江戸時代の町民の身長と同じなのです。中世から近世にかけて低身長化に向けて緩やかな推移はあったが、1940年代ごろまで1000年以上にわたって、日本人の身長に大きな変化はなかったのです。ここ70年で逆噴射するように高まり、近年に至って劇的に高身長化したのです。グラフ化してみると40年代末ごろから伸びてくる。たとえば男性平均ならば、160センチメートル前後だったものが171.8センチメートルに急伸しています。

ミトコンドリアDNAからみる日本人の起源

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遺伝子研究のパイオニア、ジェネシスヘルスケアによると、母親からのみ遺伝するDNAである「ミトコンドリアDNA」を検査して母方の家系を辿ると、「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれる「ある一人の女性」に辿り着くといいます。そのたった一人の女性が果たして、聖書に登場する「イブ」であるかどうかは不明ですが、人類はこの女性の家系から「ミトコンドリアDNA」の突然変異を繰り返し、派生してきたのだそうです。そして、現代の世界の人々はおよそ35人の母親の子孫であることがわかっており、日本人においてはその95%が、たった「9人の母親」の子孫であるというから驚きです。その「母親」たちに由来するグループを「ハプログループ」と呼ぶそうなのだが、なんと、ジェネシスヘルスケアでは自身がどの「ハプログループ」に属するかを調べる祖先遺伝子検査を行っています。日本人の「ハプログループ」で最も多いのは「東アジア最大集団」で日本人の35%がここに属するといいます。次に多いのが「太平洋を渡った日本最初の移住民」(約10~20%)と、「幻の陸地スンダランドの末裔?」(15%)だそうです。スンダランドとは、氷河期にタイ中央部に存在し、水没してしまった陸地であります。