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歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

西南戦争と自由民権

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西南戦争最大の激戦地は田原坂ですが、国指定史跡が一番多く残されているのは実は玉東町であり、それ以外にも玉名市山鹿市南関町など熊本県北地域の各地に西南戦争の爪跡が残されています。
南関町には官軍側の総督有栖川宮熾仁親王の本営が置かれた正勝寺があり、町内に官軍墓地も設けられています。
玉名・高瀬は、薩軍本隊がもっとも北まで進んだ場所。菊池川を挟んで北上を阻止する官軍との激しい戦いが行われました。
この戦争では“当事者”である薩軍や官軍以外の熊本の人々をも巻き込んでいます。

荒尾市で生まれた宮崎八郎も西南戦争に人生を左右されたひとり。明治維新後、ルソーの「民約論」に感銘し、民権学校「植木学校」を創立。西南戦争が起こると、「熊本協同隊」の参謀長として薩軍に付き参戦、八代で戦死しています。
熊本協同隊は西南戦争勃発と前後して、山鹿の光専寺で農民一万人を集め、人民大集会を開き明治政府が任命した役人を罷免、薩軍とともに山鹿を占領し、選挙による住民自治を行いました。
住民自治はわずか 50 日あまりで幕を閉じましたが、これが日本初の自由民権派による民権政府とされています。
戦争に関わったのは旧士族や兵士だけではありません。
玉東町にある正念寺や徳成寺には官軍の野戦病院が置かれ、地元の人々が治療を手伝いました。そこで、官軍、薩軍の区別なく昼夜献身的に治療する人々の姿に感銘を受けた元老院議官佐野常民がヨーロッパにおける赤十字活動を参考に「博愛社」を創立。
博愛社はのちの日本赤十字社に発展していき、玉東町は日本赤十字社発祥の地と言われています。
現代では、郷土にさまざまな影響を及ぼした西南戦争を語り継ぐ取組みが玉東町などで行われています。官軍側の弁当・陣中食の記録が残されていたことから、当時、兵士が食していた食事を再現し、「食」という切り口から「西南戦争」をより身近な歴史として感じてもらう「薩軍めし」、「官軍めし」が開発されました。また、当時の官軍、薩軍の制服をもとに、デザインさせたコスチュームを身にまとった姿で寸劇を披露する活動も玉東町の有志で行われています。はからずも戦争に関わってしまった郷土の人たちの生き方、西南戦争が現代にもたらしたものに焦点をあてると少し見え方が変わってきます。

激戦地田原坂 

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西南戦争

西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱。征韓論により下野した西郷は帰郷して私学校を興したが、その生徒が西郷を擁して挙兵。ともに下野していた桐野利秋篠原国幹村田新八別府晋介らが率い薩摩軍は北上、東京を目指した。

その途上で熊本鎮台(熊本城)を包囲したが、稚拙な作戦により陥落させることができず徴兵による政府陸軍に鎮圧され、
最後は西郷ら薩摩軍幹部らは鹿児島に敗走、城山に陣地を築き立てこもったが政府軍の集中砲火にあい、多く自刃した。
明治初年の士族反乱の最大で最後のものとなった。以後の反政府運動の中心は自由民権運動に移る。