歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

乃木希典と連隊旗

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西南戦争において政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍とが熊本で戦端を開いたのが1877年[明治10年]2月21日です。その翌日には乃木希典にとって連隊旗を敵に奪われるという事件がおこります。西郷軍が大挙して熊本県内で事を起すという急報に接した熊本城の鎮台司令長官谷土佐出身の干城少将が、小倉の歩兵第14連隊に救援を命じました、19日には先発隊が熊本城に到着し、これに続いて乃木希典の率いる本隊は20日に久留米を出発しました、21日の午前7時には熊本市外川尻において薩摩軍13000の軍勢と戦端を開いたのでした。両軍は互いに譲らぬ攻防戦となり、22日には一旦退くかと見えた薩軍の一部が植木に逆襲し、第14連隊の旗手河原少尉が戦死してしましました。その為、明治天皇親授の連隊旗はむざむざと敵手に奪われてしまったのでした。この事を乃木希典は重く受け止め、責任上その夜のうちに割腹して罪を謝する覚悟でしたが、任務遂行の為、遂に果たし得ませんでした。同年4月22日、中佐に昇進して鎮台参謀に昇進後間もなく、ある夜密かに今宵こそはと覚悟を定めたあと、将に軍刀逆手に割腹しようとしましたが児玉源太郎少佐に発見され、切々たる説得に会い、思いを果たすことができませんでした。それからも軍旗を奪われた痛恨事は、乃木の胸を常に苦しめながら密かに割腹の時期を待ち、いつかは必ず責任を果たさねばならないと思っていたのかもしれません。その後、1912年[大正元年]9月、明治天皇崩御のあと夫人と共に自刃殉死した遺書には、連隊旗紛失の時のことが最初の1条に記載されており、いかに当時の責任感が乃木希典の生涯を支配したかを察することができます。