戊辰戦争とは
戊辰戦争の前哨戦である鳥羽伏見の戦いは、慶応4年、1868年に鳥羽の小枝橋付近で戦端が開かれました。旧幕府軍約15,000名と、薩摩藩、長州藩、土佐藩が主力の約5,000名が激しい戦闘を繰り広げました。旧幕府軍の主力は会津藩、桑名藩、新選組、京都見廻組らであったのです。当初は数で勝る旧幕府軍が薩長軍を圧倒するかと思われたが、旧幕府軍は旧式銃や刀槍に袴姿、一方の薩長軍は新式西洋銃にだんぶくろの戦闘服でした。さらに薩長側に天皇の旗印である錦の御旗がひるがえると薩長軍は官軍となり、旧幕府軍は朝敵となった。このことによって失意した徳川慶喜は江戸へと逃げ帰っていきました。その後、新選組は甲州勝沼の戦いで敗走し、上野彰義隊も壊滅したが、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と対峙いたしました。しかし朝敵の汚名をきせられることを懸念した各藩は次第に腰が引けはじめ、会津藩や庄内藩などは孤立していくこととなるのです。また長岡藩家老・河井継之助は中立の立場を貫こうとしたが、新政府軍監の土佐藩・岩村精一郎との会談は決裂し、北越戦争に突入していきました。そして北越戦争、白河口の戦いなどを制した新政府軍は会津城下を目指して三方から侵攻していきます。城下への侵入をゆるした会津藩は鶴ヶ城籠城戦を決めましたが、明治元年、1868年九月二十二日、会津藩は開城降伏し、庄内藩も翌日降伏しました。