歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

池田屋事件と土佐藩の北添佶摩

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北添佶摩(キタゾエキツマ)は、商家の出身で19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となります。開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学びます。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共に奥州や蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案します。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画でした。この策には、坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけております。その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)の池田屋事件に遭遇し死亡しました。この際、新選組によって殺害されたと思われていたが、近年の研究によって自害して果てたことが判明しております(享年30歳)坂本龍馬池田屋事件によって、北添以外に土佐勤皇党の石川潤次郎、海軍操練所の塾生・望月亀弥太など同志を亡くしました。更には、池田屋事件により坂本龍馬が考えていた、幕府によって活動が抑圧されている尊皇攘夷の過激派を、京から蝦夷へ移住させる計画が中止となりました。その後、池田屋事件禁門の変などの尊皇攘夷の活動に、塾生が関わっていた事を理由に、幕府によって海軍操練所を閉鎖させられる事となります。