歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

池田屋事件の生還者、有吉熊次郎

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有吉熊次郎は、長州藩士、尊皇攘夷派の志士で熊次郎は通称で、諱は良明、本姓は藤原氏を称し、墓碑の刻字には藤原良明とあります。贈正五位で、作家有吉佐和子の曾祖父にあたります。天保13年(1842年)に長州藩士有吉忠助の次男として生まれます。藩校の明倫館に学んだのち、16歳の時に土屋蕭海の紹介により吉田松陰松下村塾に入塾します。松陰は、才の岡部富太郎、実直の有吉、沈毅の寺島忠三郎と評して、この3名を一つのグループとして力にしようと考えました。 安政5年に松陰の老中間部詮勝暗殺計画に血盟をしたことから、外叔の白根多助により家に幽閉されます。松陰が野山獄に再投獄された際は、その罪状を問うために周布政之助ら重役宅に押しかけた塾生8名の中の一人であります。 その後、高杉晋作に随い御番手として江戸へ遊学、桜田の藩邸内にある有備館に入ります。 高杉ら同志と武州金澤(金沢八景)で外国公使を刺殺しようとしたが、計画が事前に藩主世子の毛利定広に伝わったため実行に到らず、謹慎を命ぜられます。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作りますが、この時に血判署名した同志は有吉を含む【高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、井上馨、松島剛蔵、寺島忠三郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎】の11名であり明治以降の政府や要人になる人物と同じ時期を立場も近いかたちで過ごしておりました。品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加します。 そのあと藩命により航海術を学び、その後、京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進します。元治元年(1864年)の池田屋事件では、吉田稔麿ら同志と会合中に新選組に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。その際、事件により厳重警戒中の京都を飛脚に変装して出立している。同年、急進派の藩士らと上京、禁門の変蛤御門の変)において重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃します。(享年23歳)