歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

池田屋事件と土佐藩の北添佶摩

f:id:yamato81:20150526225120j:plain

北添佶摩(キタゾエキツマ)は、商家の出身で19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となります。開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学びます。その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共に奥州や蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案します。これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画でした。この策には、坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけております。その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)の池田屋事件に遭遇し死亡しました。この際、新選組によって殺害されたと思われていたが、近年の研究によって自害して果てたことが判明しております(享年30歳)坂本龍馬池田屋事件によって、北添以外に土佐勤皇党の石川潤次郎、海軍操練所の塾生・望月亀弥太など同志を亡くしました。更には、池田屋事件により坂本龍馬が考えていた、幕府によって活動が抑圧されている尊皇攘夷の過激派を、京から蝦夷へ移住させる計画が中止となりました。その後、池田屋事件禁門の変などの尊皇攘夷の活動に、塾生が関わっていた事を理由に、幕府によって海軍操練所を閉鎖させられる事となります。

桂小五郎(木戸孝允)と池田屋事件

f:id:yamato81:20150525115603j:plain

池田屋事件では池田屋へ一番早く行ったが、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行っており、小五郎は運良く難を逃れたと言われております。新選組池田屋を襲撃したのは、対馬藩邸に行っている間に起こったのです。池田屋事件の発端となった過激派浪士の企てですが、そもそも桂小五郎は過激な計画には反対の立場であったといわれています。池田屋の集会へは自分自身が出席せず、何名かの腹心を派遣したと言われています。特に桂が心配したのは、古高の自白により長州藩有栖川宮との関係や、長州藩が関係する人々に累が及ぶ事ではなかったと推測されます。 『木戸孝允文書』に書かれた池田屋の事を述べている部分では、どこか後ろめたさがあり、明快に述べてはいません。木戸の他にも同夜、池田屋に居て運良く逃げ延び、明治になってから政府の高官になった幾人かもこの事件の話になると口が重かったといいます。多くの同志を失い、逃げたことは別として、助かったことが負い目になっているのかもわかりませんが、取り合えず木戸は自分の代わりとして派遣した人物が殺害されたことも原因して、言葉を濁し、池田屋へも一度は尋ねたと文章には書いているのではないでしょうか。池田屋事件は、八月十八日の政変以来、挙兵を訴えていた長州藩の急進派を刺激する結果となり、禁門の変における武力上洛を引き起こしたが、惨敗しました。小五郎はその後も京に潜伏し情報収集に努めるが、同志からの依頼で帰郷いたします。

熊本の尊皇攘夷派、宮部鼎蔵と池田屋事件

f:id:yamato81:20150520171058j:plain

宮部鼎蔵は1820年4月、肥後国益城郡田代村で、春吾の長男として生まれました。代々医者の家庭で、叔父の宮部増美の養子となった。実弟に宮部春蔵がいます。家業である医家を継がず、叔父の宮部丈左衛門に就き、山鹿流軍学を学んだのです。その後、兵学師範である村上傳四郎に師事し、24歳のときには村上傳四郎の代見を仰せ付けられている。30歳のとき、中尾ゑ美と結婚。この頃、肥後藩に召し出されて、31歳の時、軍学師範となりました。1850年には長州藩吉田松陰先生と同じ山鹿流軍学を学んでいたと言う事で、吉田松陰先生が九州遊学した際、宮部鼎蔵の家に宿泊し会談しました。1851年、宮部鼎蔵は江戸へ赴任すると、江戸に出ていた吉田松陰と再会し、意気投合して親交を更に深めました。そして、松陰先生とともに房相や東北諸藩を遊歴し、諸国の志士と交遊しております。そのあと、熊本に戻ると林桜園(はやしおうえん)に就いて原道館に入ると、皇朝の古典や国学などを学んでおり、黒船が来航すると江戸に出て同志をまとめております。1859年、吉田松陰先生が処刑されると熊本に戻ったが、門人・丸山勝蔵や、実弟・宮部大助らが起こした水前寺乱闘事件で連座し、兵法師範職から解任され退隠生活にはいりました。その後、肥後勤皇党に参加すると中心的な人物となった。七滝村で退隠している所に、出羽の清河八郎が訪ねて肥後勤皇党にも攘夷に参加するよう説得されました。宮部鼎蔵も説得したが、肥後勤皇党は動かず、藩も同様だった為、宮部鼎蔵は奮起して京都に上り、勤王志士と交流し政治活動を再開したのです。全国諸藩から選抜された親兵3000人が設置されると総督・三条実美の下で宮部鼎蔵が総監に命じられました。しかし、1863年八月十八日の政変で、朝議が一変し、長州藩が京より追放されると警備にあたっていた熊本藩士らも解散となったが、宮部鼎蔵ら尊攘派志士たちは脱藩して三条実美ら七卿と共に長州藩へ落ちのびました。その後、再び京都へ潜伏しており、古高俊太郎のところに寄宿しておりました。1864年6月5日未明、同志の古高俊太郎が新撰組に逮捕された為、京都三条小橋の池田屋で、宮部鼎蔵や長州、土佐、肥後の尊皇攘夷派、20数名がひそかに会合し救出作戦を練ろうとしたのです。そこを近藤勇土方歳三らが率いる新選組に襲撃され、奮戦するも自刃しました(享年45)弟の宮部春蔵も、1864年禁門の変に参加し、真木和泉らと共に天王山にて自刃しました。(享年26)このように勤王志士として活動していた大半の志士達は、表にでること無く、大和魂を目指して散っていったのです。宮部鼎蔵が亡くなった5年後に明治維新を迎え、新しい時代が始まったのです。

松陰門下の四天王、吉田稔麿と池田屋事件

f:id:yamato81:20150519132629j:plain

吉田稔麿は、高杉晋作久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀とゆわれたほどの人物です。吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれます。松陰先生主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き、門下生となります。初期の松下村塾入塾生であり、松陰が特に親愛の情を示した稔麿には「無逸」という字が付けられ、同じく「無」がつく字を付けられた増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われます。無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」「久坂玄瑞の才能は自由自在で妨げるものは何もない。高杉晋作は陽頑、つまり頑固さが表に出るが、稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない」と高く評価しました。文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月には「屠勇隊」を創設します。8月の朝陽丸事件では始末を任され、烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功します。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件池田屋に稔麿も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。 しばらくして戻ると新撰組池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死します。他の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にしたとされております。 またさらに別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もあり、24歳の若くして散った、稔麿の最期については諸説ございます。

古高俊太郎と池田屋事件

f:id:yamato81:20150518150015j:plain

池田屋事件とは、幕末の元治元年 6 月 5 日(1864 年 7 月 8 日)に、京都三条木屋町の旅館・池田屋京都守護職配下の治安維持組織である新選組が、潜伏していた長州藩土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件です。池田屋騒動とも言われております。幕末の京都は政局の中心地となり、尊王攘夷・勤王等の政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していました。長州藩会津藩薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。尊王攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせていたのです。5月下旬頃、新選組諸士調役兼監察の山崎烝島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告しました。武器や長州藩との書簡等が発見されたのです。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させました。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる」というものであったのです。さらに探索によって、長州藩土佐藩肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めたのです。

勤王商人・古高俊太郎と福寿院

滋賀の福寿院には、幕末の志士・古高俊太郎の大きな顕彰碑がございます。池田屋事件(1864)にかかわったことで有名な古高俊太郎は、福寿院の住所でもわかるとおり(滋賀県守山市古高町158)古くから地元の名族名士の古高一族の出身で、激動する時代の中、尊皇攘夷の理想を掲げていたことで知られます。尊皇攘夷を唱える梅田雲浜に弟子入りした俊太郎はその後、諸藩と取引のあるほどの大店・桝屋の主人になり、尊王攘夷運動の理想実現のために尽力しました。古道具、馬具を扱いながら早くから宮部鼎蔵らと交流し、有栖川宮との間をつなぐなど長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたりました。その後、新撰組に捕らえられ、志半ばにして獄舎で拷問ののち、7月20日(8月21日)の禁門の変の際に生じたどんどん焼けで、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首された。地元の福寿院では大正時代に、その志とひととなりを称える顕彰碑が建てられました。寺院裏の古高一族の墓所には、俊太郎の墓もあります。

f:id:yamato81:20150515123855j:plain

 

f:id:yamato81:20150515123630j:plain

f:id:yamato81:20150515123638j:plain

勤王商人、白石正一郎

f:id:yamato81:20150513134238j:plain

下関竹崎で荷受問屋を営み、清末藩御用達を勤めた白石正一郎です。
正一郎は、近世に港湾都市として栄えた下関において、大きな経済効果を生む諸国の廻船交易に参入できない新興商人でした。そのため、藩内外の交易相手に機敏に対応し、商利を求めて積極的に藩際交易(藩と藩の交易)を開拓することとなります。また、国学に傾倒し、自ら奇兵隊に参加するなど、尊王攘夷運動に身を投じていきました。正一郎が新規事業に失敗しながらも、「国家」のために経済活動・攘夷運動に奔走していたことを資料によって跡づけるものです。また、その過程から生まれた幅広い人脈を通じて、相互扶助に似た人間関係が構築されたことを認識していただければ幸いです。1855年には西郷隆盛が白石正一郎を訪ねて無二の親友になったと言います。そのような経緯もあり、1861年に小倉屋は薩摩藩の御用達となったのだが、この西郷隆盛を宿泊させたのが、志士への支援の始まりでした。一方で月照上人、平野国臣、真木保臣らとも親しく、以降は損得抜きで長州藩久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎薩摩藩大久保利通小松帯刀筑前平野国臣久留米藩真木和泉らを資金面で援助しました。土佐藩を脱藩した坂本龍馬中岡慎太郎なども一時、白石邸に身を寄せ下関での拠点としています。

吉田松陰先生の三余説

f:id:yamato81:20150511182019j:plain

松陰先生が下田密航の失敗によって萩の「野山獄」に収監されてからの14か月間に618冊もの大量の読書をしたのは有名な話であるが、これとても兄の梅太郎の協力があってこそのことであります。連日のように弟の獄を訪問し、希望する本を届けてやった兄弟愛は非常に美しいです。そのこともあってか、先生は「三余説」を著して自分の読書欲のあり方をここで云っています。獄中で余暇がたくさんあるのを、無駄にすべきでないと考える松陰先生であったのです。

「三 余 説」
(野山獄文稿)全集第二巻収載316頁安政二年(一八五五)四月二日 
昔薫遇謂へり、「書を読むは当に三余を以てすべし。冬は歳の余なり。夜は日の余なり。陰雨は時の余なり」と。然れども歳にこれ冬あり、日にこれ夜あり、時にこれ雨あるは、皆天道の常にして、未だ以て、余と為すに足らざるなり。吾れ獄に入りて来、亦三余を得て以て書を読めり。謂へらく、巳に義を忠孝に失えども、尚ほ食を家国に仰ぐ。是れ君父の余恩に非ずや。巳に身陰房に幽せられ、尚ほ照を戸隙より取る。是れ日月の余光に非ずや。性巳に狂悖(きょうはい)にして多く大典を犯し、質又尩弱(おうじゃく)にして数々篤疾に罹る。ここに一もあらば、皆以て身を殺すに足れり。而るに方且に余恩を仰ぎ、余光を取る。是れ人生の余命に非ずやと。凡そ此の三余は皆薫遇にこれなき所にして、吾れ独り之れを得たれば、身を没すと雖も足れり。
抑々薫遇は或いは農となり、或いは官となり、徒だ其の三余を得るのみにて、尚ほ以て天下後世に伝ふるに足れり。況んや吾れは我が三余を得たるをや、寧んぞ量るべけんや。

【解説】
先に三余を書いたのは魏の薫遇である。
かれは、冬と夜と陰雨の三者を三余とした。しかしそれらは自然の常であって「余」ではないと松陰は考える。ところが今、獄中にある自分に与えられている、余恩.余光.余命の三余は、ただ自分だけが得ることの出来るかけがいのないものである。
それだけに、この三余に対しては感謝しても感謝しきれない思いである。松陰のこのような捉え方こそが、繋獄という逆境にありながらも志気を衰えさせることなく、常に前向きの姿勢を保持し得た要因をなすものである。

ペリリュー島の戦いと大和魂

f:id:yamato81:20150508215723j:plain

この小さな島でくりひろげられた戦闘は、これまでの島にまさる壮絶さだったのです。オレンジ・ビーチ、この海岸は1944年9月15日に始まった米軍のペリリュー島への最初の上陸地点でした。米軍は、既に制空制海権を抑えており、その上陸前に相当の爆撃をこの島全土に行っていきました。その数わずか1日で6万発におよび、この時の米軍指揮官はこの島は 4 日で落とせると豪語していたのです。【日本兵玉砕までの日数・サイパン31,000人23 日・テニアン5,000 人7日・グアム18,000人20 日】という短さでありました。そしてこのペリリューには、10,000 人余りの日本兵が守っていたのです。ペリリュー島攻略に当たり、米軍は空母11隻、戦艦3隻などからなる大機動部隊を繰り出しました。上陸作戦以前の米軍の徹底的な艦砲と爆弾によって、島の光景はすっかり変わり、真っ白い石灰石が露出した裸の島になってしまっていたらしいです。そして米軍海兵隊は、日本軍陣地はもう完全に破壊され、敗残兵狩りのみと感じていたというのです。他の島でもそうだったように、日本軍は徹底した水際作戦を行いました。つまり米軍が上陸寸前の海岸で迎え撃ち、至近距離から叩こうというものであります。特にこの海岸からの上陸を日本軍は予想しており、機雷や地雷の敷設をすると共に、米軍をかなりひきつけておいて一斉射撃するという作戦を立てていたのです。そして、その作戦は見事に当たるのである。この島は、今までの島とは違う事があった。高地の斜面には数多くの洞窟陣地があり、上陸に先駆けた米軍の膨大な艦砲と爆弾を見事にかわし、米軍の予想とは裏腹に、戦力はほとんど維持されていたのだったのです。その後、激戦は続き玉砕をしたのです。国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオペリリュー島民を守り抜いた日本兵。現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。戦後69年が経ち、日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実です。

 

陽明学と吉田松陰先生

f:id:yamato81:20150501143130j:plain

松蔭先生は軍学、兵学ばかりでなく、国学儒学史学も学んでいますが、特に儒学の一種の陽明学を深く学んでいたのです。この陽明学にある教えに知行合一がありますが、それは実践重視主義を重視し、説明すると「思想は行動が共なってこそ完成する。言行一致でなければならない」というものなのです。そのために革命家の多くが影響受け、高杉晋作西郷隆盛河井継之助大塩平八郎赤穂浪士木村岡右衛門吉田忠左衛門もそうであったと云われております。正しいと信じたことを必ず実践すれば、過激になる場合もあるので多くの信奉者が非業の最期を向かえることになるのも納得できます。あの三島由紀夫陽明学の信奉者だったようです。陽明学の沈滞状況は、1840年アヘン戦争以降徐々に変化いたします。『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになります。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したといいます。

下の日本の項目で述べるように陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残しました。特に明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼしたといわれております。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』やその類似雑誌がいくつも創刊されたのです。日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになるのです。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されているのです。中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚しました。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られます。こうした梁の傾向は戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神・道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものでありました。
こうした梁啓超国民国家精神に陽明学を注入するというアイデアそのものも、実は当時の明治思潮から借りてきたものであったのです。明治30年代当時は、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理あるいは武士道精神といったものが退廃にさらされていると考え、それらを陽明学で蘇らせようという風潮が日本にはあったが、これが明治期における陽明学熱の背景であります。こうした風潮に梁啓超は感化されたのであります。いわば梁啓超らは明治日本において陽明学の再発見・再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえるかもしれません。