歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

ラバウル航空隊

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ラバウルパプアニューギニア領ニューブリテン島のガゼル半島東側、良港シンプソン湾を臨む都市。東ニューブリテン州の州都であります。ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名で、周囲は火山地帯として知られております。第二次世界大戦中の1942年には日本軍が占領し、今村均陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれます。ここはラバウル航空隊の基地があり、連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれました。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置されたのです。連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめたため、終戦時まで日本軍が保持することとなったのです。なお、食料は自活により豊富でありました。また、オーストラリア軍は日本軍占領時に大きな損害を出したためか、他の連合軍に比べ勇猛に戦ったといわれております。ラバウル航空隊とは太平洋戦争当時、ニューブリテン島ラバウル基地に集結しこの空域に展開して戦った海軍・陸軍の戦闘・爆撃・偵察・水上・各航空隊の総称である。各航空隊は本部をラバウルに置き作戦に呼応してニューギニアとソロモン方面の各基地を移動転戦した。日本海軍航空隊は前半は第21・26航空戦隊、後半は第22・25・26航空隊を主力とした。ガダルカナル攻防戦以降多数の航空隊が参戦したが、1943年後半以降については、いわゆるラバウル海軍航空隊とは主に二〇一空、二〇四空、二五三空、七〇一空を指します。ラバウル航空隊は基地航空隊としてまずポートモレスビー方面に進出した連合軍航空隊と戦闘を繰り広げ、練度高く比較的平穏な大戦初期には損害率15対1という圧倒的な勝利を報告しました。しかし、南部ソロモン方面で開始したガダルカナル島をめぐる陸海の熾烈な戦いでは基地航空隊は航空消耗戦に突入し、攻撃機隊は往復2000kmの長距離飛行の進攻作戦を強いられ、被弾に弱い機体と激しい疲労で、貴重な熟練搭乗員と機体を多数失いつつ連合軍に敗退したのです。1943年に入り連合軍に米英新型航空機が順次登場し攻防が激化する中、6月末からは中部ソロモン、ニューギニアの両方面で連合軍の本格反攻が開始され、海軍・陸軍は補給力減衰し順次後退しました。10月から激化した連合軍の空襲により空前の大規模迎撃戦が開始され、ラバウルは戦闘機隊を中心とする迎撃基地となった。1944年1月を過ぎて弱体化がはじまり、1月初めに201空が消耗し再建、続いて1月末には204空幹部が後退。2月17、18日にはトラック島が空襲されて再建中の204空が壊滅したため、2月20日253空の大部分とラバウルに進出していた第二航空艦隊がトラック島に撤収。日本軍は南太平洋方面への補給線維持が困難になると共に、戦力としてのラバウル航空隊は事実上消滅した。


ラバウルのアメリカ軍評価》
昭和17年秋のガ島を巡る航空消耗戦を外山海軍少将は「無意味な死闘」と呼んだ。貴重な熟練搭乗員を失わず温存することで日本軍は連合軍に対して史実より健闘できた可能性はあるが、連合軍側も戦術を変えた可能性がある。アメリカ軍でもラバウル航空隊の実力を高く評価しており、ニミッツ、キンケード、ハルゼーもその武名を恐れていた。
とくに勇猛で名高いハルゼーも息子が米空母ラバウル空襲の際戦死するのではないか不安だったと戦後の回想録に書かれている。ラバウルでの戦死率の高さから、アメリカ軍搭乗員からはラバウルはドラゴンジョーズ(竜の顎)と恐れられた。これはラバウルの地形が竜の顎のような入り組んだ湾であることと同時に、侵攻すれば大損害を被ることを指している。