歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

樋口季一郎とユダヤ人

樋口季一郎さんは1918年、陸軍大学校を卒業。当時のエリートでした。
各国の情報収集にあたる情報武官としてヨーロッパやロシアに赴任し、順調に出世街道を歩んでいました。
そして日中戦争が勃発した1937年、満州関東軍で諜報活動のトップ特務機関長に就任。
1938年、ナチスユダヤ人狩りから逃れて来た数千人のユダヤ難民たちが死に掛けているという情報が入ってきました。
満州国と国境を接したソ連領のオトポールで多くのユダヤ難民たちが瀕死の状態にあったのです。
当時、ヨーロッパではナチスドイツがユダヤ人迫害政策を強行。ナチスユダヤ人を生きたまま生体実験に使ったり、銃殺やガス室で次々と大量虐殺していました。
命を奪われたユダヤ人は600万人を超えるとも言われています。
迫害を逃れてきたユダヤ人はヨーロッパからシベリア鉄道でソ連を経由し、日本の支配下にある満州国を通ってアメリカなどに向かうしか生きる道がありませんでした。
満州国が入国を拒否したためユダヤ人は満州国の手前のオトポールで立ち往生することになってしまったのです。食料は底をつき、寒さと飢えで病人が続出。
命の危機にさらされていました。すると、樋口季一郎さんのもとへ極東ユダヤ協会会長のアブラハム・カウフマンが訪ねてきました。
ユダヤ人が求めていたのは満州国の入国ビザの発給でしたが、一軍人である樋口季一郎さんにはその権限がありませんでした。
とはいえ、実質日本の支配下にある満州国に対して大きな権力を持つ日本軍の樋口季一郎さんに何とかビザ発給の指示を出してくれないかと懇願しに来たのです。
しかし、樋口季一郎さんには即答できない深い事情がありました。
日本はこの時ドイツと同盟国だったため、ドイツから逃れてきたユダヤ人を救済することはドイツの国策に反していると捉えられてしまいます。
つまりそれは日本とドイツの友好関係に傷をつけてしまうことになるのです。
苦悩する樋口季一郎さんの脳裏には、ある一つの思い出が蘇っていました。樋口季一郎さんがロシアに赴任していた時のこと。
当時、有色人種たる日本人に対する差別の目が歴然と存在していました。
しかし、そんな中でも樋口季一郎さんに差別することなく接してくれたのはユダヤ人だったのです。
今こそ、あのユダヤ人への恩に報いるべきではないだろうかと思い、樋口季一郎さんは満州国外交部にユダヤ難民たちにビザを発給することを指示しました。
しかも、樋口季一郎さんがユダヤ難民に用意したのは入国ビザだけではなく、難民救済用の列車まで手配。これによって救われたユダヤ人の数は、
一説には数千人にものぼると言われています。一人の日本人が自らの地位を顧みず取った行動が多くの命を救ったのです。
樋口季一郎さんのユダヤ難民救済行為を知ったナチスドイツは激怒し、日本政府に猛抗議。樋口季一郎さんに対する処分を求めました。
これをうけ樋口季一郎さんは関東軍からの出頭命令を受けましたが、樋口季一郎さんの思いは上司の心を動かし、
上司はこの人道的行為を正常と判断しこの一件に関して彼を守り不問としました。

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